山崎美成『世事百談』巻之三「欺きて冤恨を散」より

首を飛ばせて石を噛め

 人にとっては、ことに臨んでの一念がなにより大切である。
 臨終の際の一念の正邪が来世に受ける善悪の原因となるように、例えば狂人も、金銀のことか色情か、とにかく何かせっぱ詰まって発狂したときの一念ばかりを、いつも口走っているものである。

「主命で人を殺すのは、自分の罪にはならない」
と言う者に対して、ある人が、
「そうではない。それが武士の務めではあっても、殺生の報いはあるものだ。庭の露がいっぱい置いた木を揺すってみよ」
と応えた。早速その木の下に行って揺り動かしたところ、動かした者に露がかかった。
「怨みがかかるのもそれと同じだ。殺すよう命令した人よりも、実際に殺した人のほうに怨みがかかるのだ」
と、その人は教えたそうだ。
 ことわざにも『盗みする子は悪しからで、縄取りこそうらめし』と言う。これが世間一般の人情というものだろう。
 このことについて、次のような話がある。

 某家の家臣が、主人に手討ちにされることになった。主人に対して重い罪を犯したというのではないが、その家臣を斬らなければ義の立たない事情があったのである。
 家臣は憤って言った。
「さしたる罪もない私を、手討ちになさるとは怨めしい。死後に祟りをなして、必ずや取り殺してみせましょう」
 主人は笑った。
「おまえごときが祟りをなして、わしを殺せるものか」
 家臣はいよいよ怒った。
「見ておれ。きっと取り殺してやる」
 主人はまた笑った。
「わしをとり殺すと言うが、そんなことが出来る証拠があるのか。あるなら今、わしの目に見せてみろ。おまえの首を刎ねたとき、首を飛ばせて庭石に噛みつけ。それを見たら、確かに祟りをなす証拠としよう」

 主人が首を刎ねると、ほんとうに首が飛んで、石に噛みついた。
 しかし、後になんの祟りもなかった。そのことを人に尋ねられて、主人はこう答えた。
「あの者は最初、祟りをなしてわしを殺そうと、ひたすら念じていた。しかし後には、石に噛みついて証拠を見せようという一念ばかりが強くなり、そのため祟りをなすことを忘れて死んでしまった。だから祟りがないのだよ」
あやしい古典文学 No.446