川路聖謨『島根のすさみ』−佐渡奉行在勤日記より

佐渡の金児

天保十一年十月九日

 私の部下の嘉十郎が、銀山へ向かう途中、子供を抱いて窓から顔を出した金児(かなこ)の妻を見かけたという。絹の着物をまとってあか抜けたさまに、『江戸の女がおりましたよ』と驚き顔であった。
 この金児というのは、金銀掘りの元締めで、贅沢の限りをつくし、つねに錦衣玉食している。いわゆる山師であって、にわかに大金持にもなれば、たちまち潰れもするのである。
 金児の居宅といえば、美麗をきわめたものだという。
 佐渡において、美食する者の第一は金児、粗食するものの第一は佐渡奉行の私かもしれない。

 佐渡は、山師という言葉の起こった土地であろう。
 金銀の出る穴を間歩(まぶ)という。今盛んに金銀が出ている弥十郎間歩というところがある。
 この間歩を最初に掘りかかった男は、予想外に金銀の気がなくて損害を出すばかりで、これはもう首をくくるしかないと覚悟した。
 そこで親しい人々を呼び、酒を振る舞っていとま乞いをしようとしたが、一人の友人が不審に思って尋ねたので、かくかくの次第で困窮したゆえ…、と語った。すると、その座の者たちが金を出しあって、四両二分あまりの金を援助してくれた。
 その金で三四日をしのぐうち大きな鉱脈に掘り当たって、たちまち大富豪になってしまったという。

 一人が山を当てれば、一族の者も、その山の金児に加わったり、さまざまな作業を請け負ったり、あるいは坑中で使う油を商ったりと、皆が富み栄える。
 ごく最近も、遊佐という間歩が有力な鉱脈に当たったかもしれないということで、一族ことごとく神に祈り仏に誓って、狂人のごとく走り回っているという。
 私としては、
「そもそも山師の元祖は、佐渡金山奉行の大久保石見守長安なのに、奉行は代を重ねるうちにだんだん衰えて、この私のようになってしまった」
と笑うしかない。

 佐渡には昔、タヌキがいなかった。金の精錬に用いるふいごに皮が要るからと、石見守が雌雄のタヌキをたくさん放したので、今は大いに繁殖していて、ふいごの皮には事欠かないと聞いている。
あやしい古典文学 No.449