岡村良通『寓意草』下巻より

悪神稲荷

 江戸の渋谷に、稲葉内匠頭(たくみのかみ)の屋敷がある。家来に八郎右衛門といって、力が強いうえに柔術の心得があり、気性の逞しい侍がいた。
 その八郎右衛門が宮仕えをやめて、渋谷から一里あまり南の池尻というところで寓居した。
 その地には、池尻稲荷という悪神の社があった。神主は大蔵(おおくら)といって、池尻の里の人々は、何ごとにつけても大蔵の命に従わないと、たちまち狐に祟られるのだった。
 八郎右衛門が寓居するにあたっても、里の人々はまず最初に、
「けっして神主に逆らってはなりませんよ」
と忠告した。

 正月元旦、八郎右衛門が年始まわりで里中の道を歩いていると、むこうから神主がやって来た。道が悪かったので立ち止まって待っているところへ、大蔵は急ぎ足に近づいて、
「やい、侍。そこをのけ」
と言った。八郎右衛門、
「泥の中に入れというのか。笑わすな。おのれがよけて行け」
「池尻の神主を知らぬな。たわけが」
と口汚くののしるのを、
「神主と知っているから遠慮したのだ。力ずくで負けるわしではないぞ」
 つかんで押し伏せ、烏帽子も直垂も引きちぎり、土足でさんざんに踏みにじった。
「うう、くやしい……。思い知らせてやる」
 大蔵は捨て台詞を吐いて逃げていった。

 八郎右衛門が家に帰ると、妻に狐がとり憑いて、
「われを辱めたからには、とり殺さずにおくものか」
と叫んで狂いまわっていた。
 隣近所の人も集まってきて、口々に言った。
「あの神主のことはかねて申しておりましたのに、どうしてこんなことに……」
 八郎右衛門、
「わしに踏みにじられたが口惜しければ、わしに祟ればいいではないか。妻に何の咎がある。はやく立ち退け」
「おまえに祟るのはたやすいが、それより妻をとり殺して憂き目をみせ、恥を見せて思い知らせてやるのだ」
 いよいよ叫びののしるさまに、近所の者が幾人も、
「詫びなされ。あやまりなさいませ」
とすすめたが、八郎右衛門は、
「詫び方もいろいろだ」
と家を走り出た。

 しばらくして帰ってきて、
「どうした。まだ立ち退かぬのか。ならば、まだやりようがあるぞ」
 八郎右衛門がぐっと迫ると、
「すみません。こんなことは二度としません。許してください」
 狐憑きはひどく打ちしおれ、涙ぐんであやまった。
 人々は、意外ななりゆきに呆れて尋ねた。
「旦那、何をなさったのです」
「うん。日ごろの稲荷の所業は目に余るものがある。このような悪狐をすておくことはできぬ。そう思ったから、稲荷の祠をひっくり返し、あとに糞を垂れ散らしてやったのだ。……さあさあ狐、すぐさま立ち退かないなら、今度は何をしてやろうか」
 狐憑きはさらに悄然として、
「稲荷ともいわれ、祠をもって神の数にも入っているのに、あのように汚されては身の置き所がありません。ぜひにもお許しを。今後は何があろうと人には祟りませんから」
と詫びるので、人々もその場をとりなした。
 八郎右衛門が、
「それならば命を助けよう。ただちに立ち退け」
と責めると泣きだした。
「祠がなければ帰れません」

 人々が行って祠を据え直したところ、狐はたちまち立ち退いた。
 以来、再び祟ることはなかった。
あやしい古典文学 No.451