只野真葛『むかしばなし』より

狼を食い殺した男

 陸奥の国、柴田郡支倉村の宿というところの百姓に、与四郎という者がいた。生まれつき気丈で力も強く、とりわけ歯が丈夫なことでは、殻胡桃を食い割るなどして、近郷に並ぶ者がいなかった。

 寛政年間の某年十一月の末、病狼が里に出没して、宿の者数人が食われて命を落とした。
 そんなころ、与四郎は外に夜話に行って、家路についたのは夜中の十二時であった。月末の闇夜もかまわず、のんきに小唄をうたって歩いていると、狼が来て、やにわにふくらはぎに食いついた。
 はっと振り向いた瞬間、今度は乳の下を食われ、体を飛び越して肋骨の下を食われた。
 狼と気づいて声を上げ、
「おおい、与四郎だ。狼に襲われた。たのむ、助けてくれ」
と人を呼んだが、夜更けのことでもあり、たまたま聞きつけた人がいても恐れて出てこず、そうするうちにも前後左右からさらに数箇所食われた。
 わが身は食い殺されるとも、せめてこいつも道連れにと思うのだが、相手は飛鳥のごとく飛びのいては飛びかかるのに対し、棒の一本も持たないのだからどうにもならない。
 やむなく、手に触れたときに掴んで圧しひき、膝をかけて脚をへし折った。そうして三本まで折ったが、残りの一本で飛び歩いて食いつくことをやめない。
 やっと最後の脚を捉えたとき、顎に食いつかれた。それを両手で引き離すと、肉が千切れるのと一緒に離れたので、すかさず逆に狼の喉に食いついた。
 しばらくかけて狼の喉を噛み切り、ついに食い殺した。
 全身血まみれの姿で、近くの家の戸を叩き、
「狼は仕留めた。もう大丈夫だ。開けてくれ」
と言って、ようやく開けてくれた家に転げ込み、介抱を受けた。

 夜が明けるのを待って、長町というところに住む医師で、狼に食われた傷の手当にたけた人のところに行った。そこで傷をあらためたところ、四十八箇所あった。
「これほど食われた人は初めて見た。うち数箇所は急所にかかっているから、うまくいくかどうかは請け合えない。だが、とにかくやってみよう」
 医師は療治に取りかかったが、そのやり方は、狼に食われたところを刳りぬいて艾(もぐさ)をねじ込み、何度も灸をすえるというものだった。四十八箇所もの傷口に十分に灸をすえる間、与四郎はひるむ気色もなく堪えた。
 医師は存分に療治しおおせ、感動した口ぶりで、
「今まで何人もこの療治を施したが、ただ一つ二つの傷でさえ、人参を飲ませながら灸をすえても、気絶しないものは少ない。五十に近い傷口の療治を、始めから終いまで気を確かにして受けたとは、世にもまれな気丈者だ」
と与四郎を称えた。そして、
「これで大毒も消えたから、もう大丈夫だ。ただし、当分は禁物のことがある。第一に鱒・雉・小豆餅だ。そのほか油の強いものはみな避けて、口にしないように」
 そう言われて与四郎は、
「私は下戸で、餅が大好物なのです。小豆餅を食べないのでは、生きている甲斐がありません。どうでしょう、さっきのような灸をもう一度すえたらば、さっそく禁物はなし、となりませんか」
「いやいや、そうむやみに灸をすえたとて、禁物なしは今の体によくない。今日のところは、とにかく帰りなさい」

 しかし、正月が近い時分だったので、ひと月とたたぬうちに餅つきとなり、与四郎は我慢できずに小豆餅を食べた。
 たらふく食べたのに少しも体に障る様子がなかったので、『なんだ、平気じゃないか』と、雉や鱒なども食べたいだけ食べたところ、だんだん目がくらんできた。このまま盲人になってもつまらないと思って、以後は摂生したそうだ。
 最近の歳で五十二三になっているが、達者に暮らしているという。



 与四郎が狼と闘った事件から五六年後、また狼が荒れたことがあった。
 同じ支倉村の百姓に、剣術を好んでたしなむ者がいた。『狼を切るには、左手を出して誘い、それに噛みつこうとするとき、手を引いて切れば見事に切れる』と教えられて、ぜひ一度試してみたいと願っていた。
 親類にふるまい事があって夫婦で出かけたおり、『必ず日の暮れぬうちに帰れ』と家人にも言われ、妻もことのほか恐れていたため、親類宅を早めに引きとって午後四時ごろ家路についた。
 途中、行く手に狼の姿があったので、それを避けて回り道をしたが、家に帰り着くと夫は、妻を置いて、脇差をもって出て行った。
「けがをしてはいけない。やめておくれ」
と止めるのも聞かず、
「どうしても切ってみたい」
と言って出かけたという。

 先ほどのところに行くと、狼はただその場にすくんでいた。
 そこで脇差を抜き、左手を出して近寄ると、二十メートル足らずになったとき、狼は背を立てて胸を地につけ、こちらを狙って身構えた。
 『動いたら切ろう』と精神を集中してさらに近づき、六メートルあまりのところで狼が襲ってきた。
 動きが目にとまらず、手を引きかねて、食いつかれながら切った。
 狼の頭がそげ落ちたが、口は手に噛み入ったままだった。

 『ともかく仕留めたのだから、よしとしよう』と思って、後足に縄をつけて引きずりながら、『与四郎は四十八箇所も食われて生きおおせた。ひと所食われただけだから、心配あるまい』と気を落ち着け、家に帰るとすぐ、医師のもとに療治を頼みに行った。
 ところが、一個所の灸治にさえ気絶して、思うように療治ができず、結局、二十日もたたないうちに死んでしまった。
あやしい古典文学 No.463