森田盛昌『咄随筆』下「狐赤子を喰ふ」より

狐 赤子を喰う

 金沢城下 折違町の養雲山放生寺三世、卓藝和尚は、世に聞こえた修行者である。

 あるとき寺の門前に捨子があったが、見つけたときは既に、狐に喰われて死んでいた。
 和尚は立腹して、墓地脇の築山の穴で狐の子が育っていたのを、
「おのれ、思い知れ」
と、穴に水をくみ入れて、ことごとく殺してしまった。
 その夜、狐の子の死体が三つ、庫裏の土間に並べて置かれていた。
「この子たちをご覧なされ。酷いことをなされたな」
 そう言わんばかりだったよと、後に和尚は語った。

 有磯拾貝いわく。
「赤子は狐の大好物である。流産した胎児を餌に罠を仕掛ければ、狐が獲れないということは絶対にない。これは猟師の秘術だそうだ。
 産屋には必ず狐が目をつけているので、蟇目(ひきめ)などを用いて除けるのである。産まれてすぐ子が死ぬと、狐はそれを埋めるところまで付いてくる。また、狐つきというのは、産まれたときに、産屋で狐が思い入れた人だ」
あやしい古典文学 No.481