堀麦水『三州奇談』一ノ巻「菅谷鬼婦」より

子を喰わせろ

 加賀国大聖寺藩領、江沼郡菅谷村に、平四郎という者がいた。その妻は橋立村の伝右衛門の娘で、夫婦仲はいたってむつまじく、二人の子をなしていた。
 平四郎の家は親の代まで殺生を生業としていたけれども、当代の平四郎は大聖寺・吉崎あたりに行き通うようになったせいで、山里住まいながら軍書の片端を聞き覚え、立ち居振る舞いも無骨でなかった。この話の頃には大庄屋下役人を務めていた。

 妻も山里に似ず上品で穏やかな人柄だったが、ある夜の眠りに、異形のものに誘われるような胸騒ぎがして、心性が一変した。
 にわかに筋骨逞しくなり、いかなる獰猛な衝動に駆られてか、夜着の外に出ていた夫の足の付け根に喰いついた。このとき口が大きく裂けた。鋭い剣のごとき歯で股間の肉にかぶりつかれた平四郎は、
「うわっ!」
と一声叫んで気絶した。
 その声に驚いて、家の者たちが灯をともして駆けつけてみると、平四郎の妻の姿は鬼以外のなにものでもなかった。旨い料理を嗜むような音させて肉を噛み、血にまみれた口の周りを長い舌で嘗め回して、人々を見ても少しも驚かない。
 今度は傍らに寝かせていた二歳になる男の子を引き起こし、裸にすると、逆さに持ち上げて、足二本を同時に口に押し入れた。
「あ、何をする」
 人々が駆け寄り、力自慢の者が二三人がかりでようやく子供を引きはなした。
「子を喰わせろ。その二歳の子を喰わせろよ」
 妻が激昂して罵る騒ぎの一方で、集まってきた近隣の者が平四郎に気付け薬など飲ませると、なんとか意識が戻ってきた。しかし傷の痛みがひどく、この後の生死はおぼつかない有様だ。
 人々が妻に、
「どうしてこんなことを……」
と問いただすと、妻は、
「何も変わったことはない。ただ真夜中、誰かが誘うような心地がしてから、しきりに人の肉を喰いたくなった。喉の渇きで水を欲しがるように、ひたすら人の肉が喰いたい。われは今、殺されることなど少しも恐ろしくないのだ。ただ願わくば、あの子を食い尽くして死にたい。さあ、早くあの二歳の子をよこせ」
 こう言って、ややもすると我が子に飛びかかろうとするのだった。
 とにかく捨て置くことはできないので、人々は大聖寺の公場に訴え出た。ただちに大聖寺から足軽六人が遣わされ、平四郎の妻を連行した。

 宝暦十三年三月に、実際にあった出来事である。
あやしい古典文学 No.501