三坂春編『老媼茶話』巻之壱「知通」より

庵室に来たもの

 洛陽の臨湍寺の僧に、知通という人がいた。常に法華経を誦し、座禅の行を怠らなかった。
 自らすすんで閑静の地を求め、人の踏み込まない場所に庵を結んで、長年修行を続けていた。

 ある夜、庵室のまわりを何者かがうろついて、しきりに知通の名を呼んだ。
「我を呼ぶのは何者か。入って名乗れ」
 すると、身の丈二メートル近く、面色蒼然として眼をかっと見開き、大きな口が耳まで裂けた怪物が、知通の前に立って合掌した。
「おまえ、寒いだろう。火にあたって暖まるがよい」
 怪物は火に向かって座った。そのまま、両者ひと言も発しなかった。
 やがて火にのぼせたのか、怪物は目を閉じ、炉のかたわらに横になった。口を開けて鼾をかいている。
 知通は火箸でもって炉に燃える炭火を掴み、開いた口いっぱいに詰め込んだ。
 怪物は絶叫した。庵から走り出たが、躓いて倒れたらしく、大きな音がした。
 知通は躓いた場所へ行って、一片の木の皮を拾った。

 朝になってから、木の皮を携えて山に登った。
 木々を調べていくと、大きな桐の木の根元がくぼんで、真新しいそげた跡がある。木の皮を当ててみると、ぴったり合致した。
 幹の中ほどに、傷のような形をした深さ二十センチくらいの穴があった。これが怪物の口らしく、中に炭火があって、まだ赤く火を含んでいた。
 その後、知通が木を焼き倒したので、怪物は現れなくなった。
あやしい古典文学 No.506