松浦静山『甲子夜話』巻之四十九より

天狗の仕業じゃ

 この六月に嵯峨天竜寺の瑞応院というところから手紙で知らせてきたといって、印宗和尚が語った。

 天竜寺領内の山本村に、遠離庵という庵室があって、そこに住む尼僧のなかに、齢十九になったばかりの新米の尼がいた。
 三月十四日の日暮れ時、尼たちが四五人連れで裏山に蕨採りに入り、ほどほどに採ると各自庵に戻ったが、どうしたわけか新米の尼だけが帰ってこなかった。
 庵では、さては狐狸に惑わされたか、思いがけぬ災難に遭ったのかと心配して、祈祷し無事を願ったが、翌朝になっても帰らなかった。
 三日後の十七日の夕方、隣村の清滝村の木こりが薪を伐りに行って、山深くの谷川で衣を洗っている若い尼に出会った。
「こんな奥山まで、どのようにして来たんだね」
と尋ねると、尼は、
「私は愛宕山に籠もってるんだよ」
と応えた。その表情は茫然として、とても正気には見えない。
 木こりは尼を宥めすかして清滝村まで連れ帰り、『行方が知れないという尼さんではあるまいか』と遠離庵に知らせた。

 その夜、すぐに庵から迎えの籠が遣わされた。
 こうして尼を引き取ったまではよかったが、元来まじめで無口な性質だったはずの尼が、大声を上げて口汚く罵り散らした。
 興奮して手がつけられないので、藤七という侠気の男を呼んで、なんとかしてくれるよう頼んだ。
 尼は、藤七をもあれこれ罵倒した末、
「それでは飯を食わせろ」
と言う。そこで飯を与えると、椀に山盛りで三杯食って、そのまま気を失った。
 やがて気がついて後は狂乱することもなく、落ち着いて二時間ばかりも経ったので、ことの始めからのいきさつを尋ねると、尼はこんなことを話した。
「蕨を採っているときでした。四十歳くらいの僧が杖をついて現れて、『こっちへ来い』と言うのです。なんとなく尊い方のような気がして近寄ると、僧は『この杖を持て。眼をふさげ』と言うのでその通りにすると、あっという間に遠方に行ったらしく、金色に輝く立派な御殿が建ち並ぶところに立っていました。僧は『ここは皇居なのだ』と教え、団子のようなものを呉れました。食べてみるとたいそう旨くて、今も口中にその甘みが残っています。それからは少しも空腹になりませんでした。
 僧は、『おまえは貞実な女だから、愛宕山に籠もればよい尼になるぞ。追々いろんな名所見物に連れて行ってやる。讃岐の金比羅にも参詣させてやろう』などと、上機嫌で言いました」
 庵に帰った翌日も、尼は、
「御僧がいらっしゃった」
などと口走り、しかし他の者の目にその姿は見えもしない。よって、
「天狗じゃ、天狗の仕業じゃ」
と決まって、新米の尼は親里に帰されることとなった。

 ある人が言うには、
「これまで天狗は、女をさらうことはしないものだった。だが世も末に及んで、天狗も女を愛するようになったらしい」
あやしい古典文学 No.521