鈴木桃野『反古のうらがき』巻之三「狼」より

鬼面山

 いつの頃のことか、鬼面山という巨漢の相撲取りがいた。身の丈は二メートルを超え、体重百五十キロあまり、もちろん力も人並外れて強かった。
 この鬼面山が、江戸での相撲興行を終えて、どこかの国へ向けて旅立った。

 旅には大勢の弟子も同道したが、道の途中、所用のことがあるからと言って、鬼面山は独りで立ち寄り先に向かった。
 行くのは山越えの道で、日暮れになると狼が出て旅人を悩ますという話だったけれども、少し酒に酔った勢いも手伝って、土地の人が止めるのも聞かないで出かけた。
 もとより大変な大男で、普通の人の十人や二十人よりは強かろうと思われたから、人々も無理に押しとどめなかった。
 ところが明くる朝になっても、鬼面山は戻ってこなかった。
 皆が心配して捜しに行くと、山からさらに山に分け入る道筋に小高いところがあって、そのあたりに狼が一頭、切り殺されて転がっていた。
 やはり狼に襲われたかと思って、さらに進むと、また打ち殺した狼の死骸があった。引き裂いたのもあった。そんな死骸が五つ六つもあっただろうか。そこらに草履や竹笠も落ちていた。しかし、鬼面山の姿はどこにもなかった。
 周辺を走り回って捜しても、血の滴りなどが少しずつ見つかるばかりで、その人の行方は知れない。「さては狼に食われてしまったのだ」と人々は言い合った。

 これほどの猛者がむざむざ命を落としたからには、きっと数知れぬ狼が集まってきたのだろう。五頭や六頭は切ったり引き裂いたりもできようが、次々に襲いかかられ、しだいに弱り疲れ果てて、ついに食い殺されたにちがいない。その凄まじく無惨な場面を思い描くと、心が痛む。
 じつは私も、鬼面山という相撲取りを見たことがある。体重百五十キロと言われ、四谷に住んでいた。この話の鬼面山は、四谷の力士の師匠だろうか、あるいは師匠の師匠に当たるのだろうか。
あやしい古典文学 No.529