鈴木桃野『反古のうらがき』巻之一「狼」より

江戸の狼

 麻布、青山のあたりに狼が出るというので、人々は大いに恐れた。
 ある家の六七歳になる男の子が、夜中に雨戸を少し開けて小便をしていて、
「ああっ」
と悲鳴を上げた。
 父母が驚いて駆けつけると、子供は腿の肉を食いちぎられ、垣根のそばに倒れていた。
 近隣の者が得物を手に集まって、襲った獣を狩り出しにかかったが、結局行方が知れなかった。
 子供は陰嚢のあたりまで手ひどく食われていたため、死んでしまった。
 その後、確かに見た人はいないものの、狼に違いないという話になって、夜に戸外に出る者はまれになった。やむをえない用事で出かけるときには、必ず二三人で連れ立って行った。

 やがて、四谷界隈に出るといい、赤坂にも出るといい、いずれも闇の夜を独りで行くと必ず脛の辺りを喰われて、傷を受けた者の数は幾人とも知れない有様だった。
 そのときの様子を被害者に訊いたところ、ほとんどの場合、『細い小路を通るときに突然来て喰いつき、振り放って逃げると敢えて追っては来ない。傷は四五箇所の歯の食い込んだ跡があり、そこが引き裂けたようになっている』とのことだった。
 そのころ、ある人がやはり細い小路を通るとき、突然後ろから喰いつかれたが、この人は腕力に自信があり、とりわけ豪胆な性分だったので、組み伏せて打ち殺してやろうとと思って、向き直って提灯で照らした。
 灯りの先に狼とおぼしき形は見えず、槿(はちす)の垣根の密生した間にカサコソと音がして、何かが入っていった。その様子が細い紐などを引き入れるような感じだったから、『さては狼ではなく、マムシか大ヘビらしいな』と考えた。
 しかし、家に帰って傷を見ると、歯型があって出血している具合が、マムシの類に噛まれたものとは違う。そこで翌日の夜、足の辺りを十分に包んで歯が立たないようにし、提灯はわざと持たず、手ごろな長さの棒を握って、前夜歩いた小路を歩いた。
 するとまた後ろから喰いついた。振り向きざま、手にした棒で殴りつけたつもりが、何もない。カサコソと音がして垣根に入るものがある。
 この辺りはみな植木屋なので、大きな庭のはるか奥のほうに家があり、灯火がかすかに見える。それに向かって大声で、
「狼が出たぞぉ。今、庭に入ったぞぉ」
と何度も叫びながら、自らも垣根を押し破って入った。
 その声に驚いて人々が集まり、それぞれ灯を掲げて照らしつつ、四方八方を狩り出した。
 植え込みの中に何かいる。それっ、と取り囲んで茂みから追い立てると、出てきたのは狼ではなくて、頬かむりをした男だった。
 ただちにからめ取って引き据え、問い詰めると、無宿者の盗人と判明した。

 この盗人に、
「何を使って喰いつかせたのか」
と問うと、なんのことはない、細い桶のたがほどの竹二本に短い釘を打って歯のようにし、一本ずつ左右に撓めて、人が通るときを狙って一時に放つ。すると二本が打ち合って喰いついたようになる。驚いて引き放そうとすると、裂傷を負うのである。
 盗人は、慌てて逃げる人の落とした金品を奪っていた。
 思うに、この騒ぎの最初は本当の狼かもしれないが、その後はすべてこの盗人の仕業であろう。この者を捕らえて後、人が喰われる事件はぱったり止んだ。
 本当の狼も、どこへ行ってしまったのか、再び出ることはなかった。
あやしい古典文学 No.532