阿部正信『駿国雑志』巻之二十四下「壮士契亡妻」より

慕い来る亡妻

 駿河の国、安倍郡府中の里人が言い伝えるところによれば、慶長のころ、同地に成田治左衛門という浪人がいた。
 浪人は毎夜、亡妻の幽霊をむかえて共に過ごしていた。人々はこれを奇怪に思ったが、その後どこへ行ったのか、行方知れずになったという。

 この成田について、『近代武将感状記』は以下のように記している。



 慶長のころ、成田治左衛門という者がいた。
 京都で妻を迎え、ことのほか睦まじく暮らして三年、ふとした病から妻は死んだ。
 死期に臨んで成田の手を取り、
「わたしの形が煙となり、土となろうとも、魂はあなたのおそばを離れません」
と涙ながらに言い遺したが、はたして数日の後、深夜に亡妻がやって来た。
 わが枕元に寄り添うようにして、打ちしおれた様子でいるのを見ても、成田はにわかに信じられなかった。
「死んだ者が再び姿を見せるはずがない。おのれはきっと妖魔であろう。だが、妻の形をしているゆえ、斬るに忍びない。どうしてくれよう」
と口走ると、
「いまわのきわに申し上げた言葉をお忘れか。あなたをお慕いしてやまない魂が、こうして参ったのです。形なき魂は、斬っても傷つきませんよ」
と応え、さらに三年間の深い契りのこまごまを言い連ねて泣きくどき、明け方近くに帰っていった。
 それからは毎夜、大雨や疾風もかまわずやって来たので、成田もだんだんと慣れて、厭う気持ちも失せ、妻存生のときと同じように枕を並べて親しくうち語らった。
 そうしながらも、心の底から警戒心を解くことはできなかったのだろう。成田は亡霊を避けるべく、にわかに駿府に下った。
 しかし翌日の夜には、駿府の家に妻がやって来た。
「生死の隔てはあっても、わたしたちに心の隔てはありません。どうしてお嫌いになるの?」
 その執心は、いよいよ深くなったように見えた。
 やむをえず成田はひと月ばかり、以前のごとく暮らしたが、今度は海を隔てようと決意し、早馬を駆って大阪へ上り、そこから船に乗って九州の豊後、中川秀重の領する城下へ向かった。
 順風に恵まれ、六七日で着いたが、それからまだ三日も過ぎないうちに、また妻がやって来た。
「たとえ千万里の大海であろうと、深く思いをかけた魂が通わぬ道はありません。苦労して所を変えても無駄ですよ。この日本の内ならまだ近い。高麗唐土の果てまでも、あなたを慕って参ります」
 成田は力が及ばないのを悟り、この地で二年の歳月を過ごした。

 成田はもともと親しみやすい人柄で、豊後の地でも友人・知人が多かった。
 ところが成田は、それらの人々と夜話をするのを好まなかった。夜遅くまで無理に引き止めておくと、十時ごろには眠り込んでしまい、何事もわからない状態になる。
 そのわけを尋ねても、本人は笑って答えない。また、
「成田が寝間に入ると、誰ともなくささやく声が中から聞こえてくる」
などと言う者もおり、仲間の者は大いに怪しんだ。
 そこで、毛利内膳、舟橋半左衛門、石田半右衛門、尾関源右衛門、村井津右衛門の五人が申し合わせて、ある日暮れに成田の家を訪ねた。
 成田が応対して、いつものように早々と夜食を出したが、五人は、
「今夜われらがここへ来たのは、貴殿のことで常々不審に思うところを見届けるためだ。夜が明けるまで帰るつもりはない」
と言って、席を立たなかった。
 しだいに夜が更けた。
 成田が座ったまま眠り入るのを揺り動かすと、いったん目を覚ました。だがその後は横に伏して、鼻息は聞こえるけれども死人のようになった。その体に小袖をかけてやり、五人は相対して座っていた。
 夜半を過ぎるころ、ぞっと身の毛がよだった。体がわなないて歯の根も合わない。拳を握って膝に当て、互いに目と目を見合わすが、相手がいないことなので、
「なんだ、これは」
と言うばかりだ。
 そのまま一時間ほど、ようやく胴震いがおさまったとき、外から障子を開ける音がした。見ると、齢十七八、色白で髪の長い女が、寝間に歩み入るところだ。
 船橋と石田が女の後に続いて走り入り、まず戸を閉じた。毛利・尾関・村井も灯火を持ち、葛籠(つづら)や挟み箱の隅々までも探したけれども、衣服・器物のほかに何もなく、女の姿は失せていた。
「これだけ探して見つからないのだから、仕方がない」
と五人が自宅に帰ったのは、もう鶏の鳴く時刻であった。

 翌日、五人は成田に会って、自分たちが見たことを語り、
「もう隠さないでくれ。わけを聞こう」
と質した。
 成田は亡妻のことをすべて、つぶさに打ち明けた。そして、
「あの者は『このことは誰にも語るな。洩らしたら命を縮める』と言った。だから、わが命はもう長くあるまいと思う。拙者が死んだら、日ごろのよしみを思い出して憐れんでくれ」
 さらに、
「わが心奥に潜む弱さゆえに、亡魂が魅入ったのだ。きっぱりと思いを断ったなら、何事もなかっただろう」
と言って友と別れた。
 その夜から妻は来なくなった。
 成田はただ茫然として、夢ともなく現ともなく日を送っていたが、十日ばかり後に急死した。
あやしい古典文学 No.536