『因幡怪談集』「伯州米子の辺にて海坊主と言者を取る事」より

人に凭れるもの

 伯耆の国のある村に、気性が豪胆な上に相撲もとる力自慢の男がいた。村は米子の町に近く、男は毎晩のように行き来していた。
 ある時も米子に用事があって、いつものように暮れ方になって行き、用を済ませて夜中の十二時ごろに帰途についた。

 海岸の道を戻っていくと、沖の方から来るものがある。海面二メートルばかりの高さが星のように光って、しだいに近づいてくる。
 もとより気の強い男なので、さして驚きもせず、『変なものが来るなあ』と思って見ているうち、すぐ近くまで来た。
 よく見ると、人の胴回りほどの太さの枕のようなもので、目とおぼしきものが一つ光っているのだ。そいつが水の上に立ち、男めがけて迫ってきた。
 『かかってきたら捕まえてやる』と身構えていると、そいつはゆっくりと浜に上がり、そのまま男に凭れかかった。
 待ち構えていたところだから、来るやいなや取っ組んで投げつけた。ところが相手は倒れない。力があるわけではないが、ぬるぬるして捕らえどころがない太い物といった感じで、抱きついて押せばたわたわと撓み、引いて放せば凭れてくる。根気強くいろんな手で倒そうとしたが、いっこうに倒せない。
 男はくたびれて大息をついた。切ろうにも刀は持たず、叩こうにも棒一本ない。ほとほと困ってしまったとき、そいつも少し弱ったようで、やっとのことで倒すことができた。
 そこで縛り上げようとしたが、手近に括るものがない。自分の帯をほどいて縛り、引きずって帰った。
 鶏の鳴くころで、村の人々はみな寝入っている。我が家の前の柿の木にしっかり括りつけ、家に入って眠った。

 男は疲れ切っていたので、朝も久しく目覚めなかった。
 近所の者が、柿の木に縛られたものを見て驚いた。
「これは何物だ。あいつが捕って帰ったんだろう。とにかく起こせ」
 戸を叩いて起こすと、寝ぼけ眼で出てきた。その姿は、顔も体も手足の先までも、墨で真っ黒に塗ったようだった。
「どうしたんだ、その格好は」
 言われてわが身・手足を見、さすがの豪胆者もぎょっとして、前夜のいきさつを詳しく打ち明けた。
「いったい何だろう」
 村じゅう集まって評議したけれども、はっきり知る者がなかった、ただし、中に一人、九十歳ばかりの老人がいて、こんなことを言った。
「これは海坊主というものではなかろうか。人を見ると寄ってくるが、喰いついたりはしない。ただ人に凭れかかって、体の鰻のようにぬらつく脂を塗りつけてくる。体が痒いのかもしれん。夜分に海のそばを通ると、時々出てくると聞いた。わしの若いころ、親どもが話したことだ」
あやしい古典文学 No.546