伴蒿蹊『閑田次筆』巻之四より

出火婆

 上野(こうずけ)の僧 融良が来て語った話である。

 さる享和元年某月、上野の吾妻郡、越後街道沿いの猿が橋(さるがきょう)で、兵馬という者の母親である老婆が、囲炉裏に寄って座っていると、炉にくべた藁の火が燃えついた。
 婆が火に包まれて悶え叫ぶのを聞いて、人々が駆けつけ大騒ぎになったが、火はすぐに消すことができた。
 そのあと見ると、不思議なことに、婆の衣類に何の別条もなく、身に火傷も負っていなかった。ただ、指で押したほどの小さい疵があるだけだった。
 この事故の後も、婆は毎日を普段どおりに暮らしていた。
 ところが年の暮れの二十八日のこと、便所に行ったとき、便所から出火した。婆は無傷で、便所は全焼した。
 さすがに怪異に驚き、婆は尼となって寺に入った。
 そうして今年の正月二十二日まで某寺にいたのだが、衣類を取りにちょっと自宅に立ち寄ったところ、例の出火で、我が家はもちろんのこと、近隣一帯二十七軒を焼き尽くした。
 みずからは山に逃れて全く無事で、一日後に里に下りてきた。その後、善光寺に詣でるとかで、旅立ったという。

 この婆は若いとき、他家から婿取りをした。
 婿はいたって篤実な者だったのに、女はこれを嫌って追い出した。密かに通じる男があったからである。
 婿は後に事情を知って激しく怒り、追い出されたとはいえ未だ離縁が調っていないのを幸いに、密夫を討とうと決意した。
 ある夜、男が通ってきたと聞きつけて、急ぎ行ってみると、囲炉裏端に座っている者がいる。暗がりまぎれに、それと決めつけて斬りつけた。
 ところが人違い。斬った相手は女の父親だった。婿は舅殺しの罪で斬刑、さらし首に処せられた。
 その後、女は思うままに密夫を迎え、今の兵馬はその男との間に出来た子なのである。
 婆は、かつての婿の怨念により難儀に遭い、家も失ったのだろうと噂されている。
あやしい古典文学 No.561