鳥飼酔雅『近代百物語』巻二「箱根山幽霊茶屋」より

紅い酒

 瓢斉という隠士がいた。
 ふと陸奥(みちのく)の名所を見物しようと思い立ち、京都から東海道を下ったが、箱根の山中を行くとき、思いがけず日が暮れた。おまけに道に迷ったらしく、人ひとり行き通わない場所に出た。
 ところがどうしたわけか、そんなところに酒茶屋がある。『ここで一杯飲んで、ついでに道を尋ねよう』と、店に立ち寄った。

「おい、酒を頼む」
 店に一人いた女が奥に入り、しばらくして酒を持って出てきた。
 たいそう紅い酒だ。味わいはすこぶる甘美である。たちまち飲み尽くした。
「もう一杯持ってきてくれ」
 瓢斉が上機嫌で頼むと、
「ひえぇぇぇぇぇ!」
 女が泣き出した。
「お客さん、どうかもう酒を求めないで。わたしは生前ひどく贅沢で、毎日酒を飲み暮らし、世の費えを気にかけませんでした。死んだ今、報いを受けて、酒を買う人があれば、わが身の血を搾って売るんです。その苦しさを憐れんでください……」

 瓢斉はびっくりして店を飛び出した。
 後も見ず走りに走って、ようやく本道に出たと思えば、まだ日が高かった。
 この不思議な出来事を人に語ったが、茶屋の場所を知る者は誰もなかった。
あやしい古典文学 No.562