平尾魯遷『谷の響』五之巻「メトチ」より

メトチ

 寛政のころ、若党町のある人の子が、裏の小川で溺れ死んだ。
 庭に運んで寝かせ、水を吐かせようと手を尽くしているとき、屍の腹の中がグウグウと鳴って、突然、肛門から抜け出たものがあった。
 蛇のような形で長さ五十センチくらい、頭が大きく扁平な体のやつが、四辺を狂ったように走り回る。
 居合わせた人々が「それ打ち殺せ! 捕まえろ!」と木刀やら薪やらを手に追いかけたが、素早く逃れて裏の川に跳び込み、ついにその姿を見失った。
 これは俗に言う『メトチ』にちがいないと噂されているそうだ。
 高瀬某から聞いた話として、千葉氏が語ったことである。

 この高瀬という人は、文化年間のあるとき、別の体験もしたらしい。
 友人と川漁に行って、折から暑気が堪えがたく、二人で水を浴びていた。
 そのうち、友人が水底に潜ったまま見えなくなった。高瀬氏が心配しているところに、やっと浮かび上がって言うことには、
「もう水浴びはやめよう。今に脂が浮いてくるよ」
 そう言っているうちにも、はや水面に泡のような脂がいっぱい浮いてきた。
「これは、どういうことだ」
 怪しんで尋ねると、友人は、
「うむ。水に潜って泳いでいると、帯みたいなものが寄ってきて、おれの腹に巻きついたんだ。二まわりほど巻いて徐々に締めつけながら、おれを曳いて水底まで来た。そいつはそこで、頭とおぼしきところを石の上にもたげた。おれは見逃さず、手ごろの石を掴んで力任せに頭を打ち砕くと、たちまち巻きついていた帯は解けたが、水が濁って何も見えなくなった。とにかく、危ないところを逃れたものらしい。これは俗に言う『メトチ』だろうか。恐ろしいものだ」
と語ったという。
あやしい古典文学 No.570