滝沢馬琴編『兎園小説』第十二集「邪慳の親」より

自得斎

 南部領の一戸(いちのへ)の男が、どんな事情があったのか知らないが、病中の妻と六つになる一人娘を捨てて、江戸へと出奔した。
 重病だった妻はまもなく死んだので、娘は伯父に引き取られた。その名を「おるす」といって、成長して後、針商人の吉五郎という者に嫁いだ。

 おるすは年来、父親にひと目会いたいと願っていた。消息をたずねるうち、人づてに『今は江戸で医者をしているらしい』と聞いて、夫に頼み込んだ。
「お願い、江戸へ行かせて。一度、自分で行って、父の行方を捜したいの」
 吉五郎ももっともなことだと思い、
「分かった。この春も、おれは針の仕入れに江戸へ出る。おまえを連れて行こう」
と承知して、それから旅の支度を調え、一戸を出立した。
 夫婦は旅の日を重ねて、江戸京橋の「みす屋」という針問屋に着いた。ここは毎年仕入れに来るときの吉五郎の定宿なので、夫婦ともこのみす屋に逗留して、父を捜すことにした。
 しかし、江戸での父の名も知らず、住まいも分からない。何の手がかりもつかめないまま、ある日、浅草辺りに行くと、花川戸に自得斎という易者がいた。
 ここで父の行方を占ってもらおうと立ち寄って、易者にあれこれといきさつを語っていくうち、驚いたことに、この自得斎がおるすの実父と分かった。むろん、おるすの喜びようは一通りでない。

 自得斎は、馬道の寿命院という寺の敷地にある自宅に夫婦を伴って、親しく宿泊させた。
 それで吉五郎も安堵して、
「私はこれから、商用で上方へまいります。しばらく妻を預かってもらえませんか」
と頼み、東海道を下った。
 おるすはこのとき十八歳、たいそうな美貌だった。自得斎は道ならぬ恋慕の情を起こして、ある夜、娘を犯そうといどみかかった。
 娘は驚いたが、とにかく厳しく父を諌めたので、その場は何事もなく済んだ。
 しかし、これより後、自得斎は大いに娘を憎んで、吉五郎が帰らぬうちに勤奉公に売って金にしようと画策した。
 さいわい、たくらみを知らせる者があったので、おるすは深く悲しみつつ、京橋のみす屋に逃げ戻り、ありのままに父の仕打ちを語った。
「父の恥を申すようですが、とても浅草には居られません。なにとぞ、吉五郎が帰るまでかくまって下さい」
 みす屋の主人は情けある者で、かくまうことを承知しただけでなく、上方の吉五郎へ早飛脚で『大事が出来たから急ぎ戻られよ』と知らせを遣った。

 さて自得斎は、娘がいなくなったのを知ると、きっとみす屋へ行ったのだろうと見当をつけ、店に乗り込んだ。
「娘に会わせろ。早く出せ」
 みす屋は、あれこれとはぐらかして会わせない。自得斎は怒って難詰したが、理屈ではまったく分が悪い。『みす屋が娘を預かった』という証文を受け取って、すごすごと帰った。
 自得斎はあらためて姦計をめぐらした。すなわち、『父は急病で命も危うい』と、人を遣って娘に知らせたのである。
 おるすは知らせを真実とは思わなかったが、そこは奥州からはるばる父をたずねて来た身だから、『万が一まことの危篤だったら、後で悔いても甲斐がない』と心が揺れ動いて、急ぎ父の家に赴いた。
 案の定、危篤は真っ赤な嘘だった。
 自得斎は娘を見るやいなや飛びかかり、殴る蹴るの乱暴をはたらいた。さらに、娘は妊娠五ヵ月だったのを、堕胎薬を飲ませて流産させた。
 あまりのことに、おるすは乱心してしまった。

 大坂にいた吉五郎は、江戸からの書状に驚いて、取るものも取りあえず夜を日に継いで引き返した。
 みす屋で様子を聞き、自得斎の家へ行ってみると、おるすは夫を見て安堵したか、いささか正気に戻ったようだった。しかし、この家にいてはろくなことにならない。
 金助町に太兵衛という馬の売り買いを商売にする者がいて、しばしば奥州にも往来し、吉五郎と親しかった。この太兵衛を頼って同じ長屋を借り、夫婦で移り住んだ。
 そうして二三日たつと、おるすの乱心も治まったようなので、吉五郎は大いに喜び、京橋のみす屋へ礼を言いに赴いた。
 その留守に、また自得斎が来た。
「さあ来い。いよいよ勤奉公に出してやる」
 力ずくで引き立てて行こうとする父に抗って、娘は傍らにあった銭を掴んで投げつけた。これが額に当たったので、父は激怒し、腰の短刀を抜いて、一突きに娘を刺し殺した。
 長屋の者たちは驚き騒いだが、自得斎は平然とうそぶいた。
「そんなに騒ぐことではない。親に無礼をはたらいたゆえ、成敗したまでだ」
 しかし、そのまま打ち捨てておけることではない。大勢が集まって自得斎を縛り上げ、お上に訴え出た。文化十四年二月一日のことである。

 この事件につき、『自得斎はおるすの実父ではない』とする者もいる。
「自得斎はおるすに占いを頼まれたとき、相手がまったくの田舎者なのを見て、『適当に騙してこの娘を売り飛ばそう』と思った。占いが商売だから、うまく口を合わせ、まことしやかに話を作るのは、お手のものだ。親子を見極める確かな証拠がないのをいいことに、実父だと偽ったのだろう。いかに辺境に棲む蛮人であろうと、親子の情愛を知らぬ者があるだろうか。実の娘に不義をしかけ、また薬を飲ませて堕胎させ、あまつさえ怒りにまかせて殺害するなど、世にあるまじきことだ」
と言うのである。
あやしい古典文学 No.607