『江戸塵拾』巻之二「大蟇」より

下屋敷に棲むもの

 本所にある松平美濃守の下屋敷には、広さ三百メートル四方の大沼がある。
 ある年、美濃守は、しかるべき事情から沼を埋め立てるよう命じた。

 近々工事に取りかかろうというとき、上屋敷の玄関に、けんぼう小紋の裃(かみしも)を着た老人が来て、取次の者に言った。
「私は、下屋敷に住居つかまつる蟇蛙でございます。このたび、私の住む沼をお埋めになる御沙汰があったと聞き及び、参上いたしました。なにとぞ、埋め立てはお取りやめくだされたく、お願い申し上げます」
 取次は、
「お伝えしよう。しばし待たれよ」
と言って退座したが、怪しく思って襖の隙から様子を窺うと、玄関にいるのはまぎれもない蟇蛙、けんぼう小紋の裃と見えたのは蛙の背中のまだら模様だった。大きさはちょうど人が座ったくらい、両眼がぎらぎら鏡のように輝いている。
 驚いて、ただちにありのままを美濃守に言上すると、
「願いの向き、聞き届けよう」
との返事があった。

 こんなわけで、沼の埋め立ては中止となった。元文三年のことである。
あやしい古典文学 No.639