阿部正信『駿国雑志』巻之二十四上「蛸化為僧」より

もとは蛸だった

 古い歴史を持つとともに風光の美しさでも名高い清見寺は、駿河国庵原郡の興津宿にある。
 この寺の開基である関聖上人は、そもそもは海中の蛸だった。

 はるか昔、ここは天台宗の寺で、住僧が常に法華経を読誦していたが、あるとき海から大きな蛸が上陸して、その経を聴聞した。
 大蛸の姿に恐れおののいた村人は、手に手に櫓や櫂をもって襲撃し、叩き殺した。
 なにしろ巨大な蛸で、体長は六メートルあまりもある。『こんな気味の悪いものを食うべきでない』という話になって、死骸は近くの山に埋めた。
 月日をへて、蛸の埋められたあたりに野草が生い出た。それを村の海女が何気なく摘んで食べたところ、やがて懐妊して一人の男児を生んだ。
 男児は生まれつき、賎しい海女の子とは思えない気品を備えていた。七歳のとき、同国 久能寺の住僧がこの地を通りかかると、母親はわが子の生まれ育ちについて語り、『このような覚束ない身の上ゆえ、どうか御弟子に』と頼んだ。

 出家した男児は、尋常の人には及びもつかない聡明さと叡智を発揮し、すべて学んで修得しないことがなかった。
 成長して後、東福寺の聖一国師の弟子となった。やがて師の法統を受けついで、この巨鼈山清見寺を開いたのだという。
あやしい古典文学 No.641