『大和怪異記』巻二「吉田兼好が墓をあばきてたたり有事」より

祟る兼好

 兼好法師は、足利幕府の権力者 高師直に叛いて後、伊賀守 橘成忠を頼って伊賀国にいたり、阿拝郡多那村国見山の麓の田井というところに住まいした。
 このとき成忠には十七八の美人の娘がいて、兼好はこれに密通したが、人に知られるのをはばかって、
    しのぶ山 またことかたの 道もがな ふりぬる跡は 人もこそ知れ
と詠んだ。
 そのようにして数年を過ごし、貞治元年五月二十三日に病死した。六十三歳であった。

 兼好の亡骸は国見山に葬られ、しるしに松が植えられていた。
 ところが近年、村人たちが墓を掘り返してみて驚いた。六尺四方ほどに刀がびっしり林立する形で埋められてあり、下に大甕・小甕を置き、その中に鏡があった。
 どういうことかと皆不思議に思ったが、そのうち甚だしい祟りがあったので、怖れてもとどおり埋め戻してしまった。
あやしい古典文学 No.642