平秩東作『怪談老の杖』巻之一「小鳥屋怪異に逢し話」より

黙っておれ

 四谷道に、小鳥屋の喜右衛門という人がいた。麻布に住まいするという武家に鶉を売ったが、
「代金を持ち合わせないので、屋敷まで取りに来てほしい」
とのこと。
 喜右衛門は、ちょうど麻布あたりまで行く用事があったので、鳥籠を提げて同道することにした。

 屋敷に入ると、中の口の次の八畳間に案内されて、
「ここで待ってくれ」
と言ったきり、鶉を奥へ持って行ってしまった。
 座敷を見回すに、いかにも古ぼけ傷んだ様子で、天井も畳も雨漏りの跡がところどころ黴びているし、敷居や鴨居が歪んで下がり、襖も破れていた。
 鶉の代金は、小判で払うほどの高額なものだ。『ずいぶん金回りの悪そうな家だなあ。難しいことを言わずに金子を渡してくれればよいが』と心配しながら、喜右衛門は所在なく煙草を吸っていた。
 ふと見ると、いつの間に来たのか、十歳ばかりの小僧が、床の間の掛け物をいじっている。下から上へ巻き上げては、手を離してはらはらと落とし、また巻き上げて落とし、と幾度となく繰り返す。
 『掛け物を損じて叱られたら、わしのせいにする気だと困るな』と思って、目を放さないでいたが、あまりいつまでも続けているのを見かねて、
「おいおい、そんな悪さをするな。掛け物が破れてしまうぞ」
 声をかけると、小僧が振り返って、
「黙っておれ!」
と言った顔に、眼がただひとつ。
 喜右衛門は、わっ! と叫んで気を失った。

 声を聞いて駆けつけた屋敷の者に介抱され、家まで送ってもらった。あらためて鶉の代金も届けられ、その後も容態を気遣う使いがたびたび来た。
 その使いの者が言うことには、
「このこと、どうか口外しないでいただきたい。わが屋敷では、年に四五度ずつ怪しいことがある。この春も、殿の居間に小さな禿(かぶろ)が座って、菓子箪笥の菓子を食っていた。見つけた奥方が『おまえは何者か』と咎めると、『黙っておれ』と言って消え失せたと聞く。そなたも、きっと黙っておられるがよい。その場限りのことで、後に悪いことは起きないから」
 喜右衛門は二十日ほど寝込んて回復し、今はなんの変わりもないそうだ。

 筆者は屋敷の名も聞いたけれど、よい話ではないから、あえて記さない。
あやしい古典文学 No.655