『諸国百物語』巻之五「松村介之丞海豚魚にとられし事」より

熊野浦のイルカ

 大坂城番衆が任果てて江戸へ下るにあたり、荷物は江戸へ直行させる船に積み、松村介之丞という人が奉行として乗り組んだ。
 ところが、熊野浦にいたったとき突然、船が金縛りにあったように動かなくなった。
 船頭が言うには、
「この船の誰かを、海中から魅入ったのです。このままでは、その人ひとりのせいで、皆が命を捨てることになりましょう。さあ、一人ずつ舳先に出て、印籠・巾着・鼻紙などを、海へ投げ入れてください。魅入った人のは取り、ほかの人のは取りません。魅入られたと分かった方は、海に沈んでいただきます」
 人々はしかたなく、持っている道具を海に投げ込んだ。それぞれ流れいくなかで、介之丞が鼻紙を投げると、大きなイルカが海中から躍り出て食らった。
「このお侍と決まった。お気の毒だが、海に入ってください」
 促されて介之丞は、
「うむ、是非もない。だが、侍がむざむざと死ぬわけにもいくまい」
と、三人張の強弓に雁股の矢をつがえ、船ばたに進み出た。
「やい、おれに魅入ったやつ。いま飛び込んでやるぞ。性根があるなら姿を見せろ」
 言うやいなや先刻のイルカが現れて、大口開いて飛びかかってくるとき、力の限り弓引き絞って放つと、矢は喉にはっしと当たる。手ごたえを残して、イルカは海中に沈んだ。
 それより船は動き、介之丞は危うい命を助かったのだった。

 三年の後、主君が今度は二条城の城番を拝命して、京へ上ることとなった。
 介之丞はまた荷物奉行として船に乗ったが、熊野浦にさしかかったとき風向きが悪くなり、やむをえず船を港につけて四五日も逗留する仕儀となった。
 港に八幡を祀った社があって、そこへ介之丞が参詣したところ、絵馬に雁股の矢がかかっていた。よくよく見れば、自分が三年前にイルカを射たものである。矢に「八幡大菩薩」と朱書きしてあるのが証拠だ。
 不思議に思って神主に尋ねると、
「この浦では年に一度か二度、イルカが船に憑いて人を取り食らうことが、何年も続きました。八幡が憂えて、そやつを殺されたのでしょう。この矢で喉首を貫かれた死骸が、三年前に波に揺られて磯へ寄りつきました。皆が見て『疑いなく八幡が誅殺なさったのだ』と思い、ただちに矢とイルカの頭とを絵馬にかけたのです」
と語った。
 介之丞は神主に真相を話し、イルカの頭を下ろしてもらった。
「さてさて、あの時おまえは、おれの命を取ろうとしたなあ」
 そう言いながら撫でると、手のひらにそげの刺さったような痛みが走った。
 そこからしだいに腫れ、一日のうちに手のひらが畳一枚ほどになって、介之丞はついに同地で相果てた。
あやしい古典文学 No.661