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湯浅常山『常山紀談』巻之十五「小幡助六郎忠死の事」より |
小幡助六郎自害 |
小幡助六郎信世は、上野介信繁の三男で、上野の生まれである。 十五歳で大坂へ出て諸家を吟味し、太閤秀吉の無二の寵臣である石田三成に仕官して、後に禄二千石を与えられた。 関が原合戦で石田三成が敗れたとき、助六郎は押し寄せる敵兵に隔てられて三成を見失った。 からくも戦場を切り抜けて落ちゆき、三成の行方を尋ねて近江の石山まで来たが、そこで村人に捕らえられて、徳川家康が陣を置く大津城に連行された。村人は、賞金として金二十枚を頂戴した。 家康の前に引き出され、三成の居場所を尋問されると、助六郎は応えた。 「それがしは三成の家来 小幡助六と申す者。いかにも、主君の居場所はよく存じております。さりながら、年来恩を受けた身で、今の難儀を逃れるために口を割るような不義はいたしません。たとえ骨を砕かれようとも、断じて申さぬ。試しに拷問にかけてみてはいかがか」 聞いた家康は感嘆し、 「忠義の武士だな。この者はきっと、三成の行方を知らない。知らないからこそ、一人で落ちた末に捕縛されてしまった。これほどの武士を、みだりに拷問してはならないぞ。将たるもの、忠臣・義士には情けをかけるべきだ。さあ、早く縄を解いてやれ」 と、即座に赦したのだった。 助六郎はその足で近くの寺へ行き、これまでのいきさつをこまごま語った後、 「思いがけず赦されたとはいえ、おめおめ生き永らえては、いつまた辱めを受けるか知れない。ここを死に場所とするので、屍は密かに埋葬していただきたい」 と頼んで自害した。 この次第を大津に言上すると、家康はことのほか残念がったとのことである。 |
あやしい古典文学 No.666 |
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