荻生徂徠『飛騨の山』より

おうん

 飛騨の山中に、「おうん」というものがいるそうだ。
 身の丈は三メートルに近く、木の葉をつづったものを体にまとっている。ものを言うのかもしれないが、聞いた人はいない。

 ある猟師が獲物を求めて山深く分け入って、おもいがけず「おうん」に行き遭った。
 その足の速いこと、まるで飛ぶがごとくだから、逃げても無駄だ。どうしようもないので、食料として持っていた握り飯を取り出し、藁にもすがる思いで差し出した。
 「おうん」はそれを取り喰らい、ものすごく嬉しそうだった。
 まったく、この深い山中に自然のままに生まれ出たものなのだ。太古の世界に生きているのと同じだから、こんなものを喰うのは初めてにちがいないと思われた。
 しばらくして「おうん」は、鹿と狢をたくさん殺して持ってきた。握り飯の返礼のつもりだろう。
 猟師は、労せずして多くの獲物が手に入るのを喜んで、それから毎日握り飯を持って出かけ、獣と交換して帰った。

 やがて、隣家の猟師が不審をいだいた。
 密かに様子をうかがい、ある夜ふけ、先回りして山中で待っているとき、突然「おうん」が現れた。
 鬼が出たと思ったか、とっさに玉をこめて鉄砲を一発。
 撃たれて「おうん」は逃げ去り、その猟師も家へ帰った。

 はじめの猟師がそのことを聞いて、『なんてことだ。かわいそうに』と心を痛め、いつもよりもっと深く分け入って行方を捜した。
 峰に登って下をのぞくと、谷底に倒れ伏しているのが見つかった。同じような姿のものが傍らに付き添っている。きっと介抱しているのだろう。
 猟師は心配でならなかったが、『人間に撃たれた恨みを、このわしに向けるかもしれん』と思うと恐ろしく、それ以上近づけなかった。
「きっとあのまま死んだろうね」
と後に人に語ったのが、人から人へ伝えられたという。

「深い山には、こんなものも棲んでいるのです」
と、細井知慎が私に話してくれた。
あやしい古典文学 No.668