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天野信景『塩尻』巻ノ二十七より |
生きていた光秀 |
従五位下日向守源光秀、すなわち明智光秀は、天正十年六月十三日に誅殺された。 これに異説がある。 『光秀は山崎で敗れて後、ひそかに逃れて美濃国中洞の仏光山西洞寺に隠れ住んだ。姓名を変え、荒須又五郎と称していた。関が原合戦のとき、徳川方に加わろうと一族を率いて出陣したが、途中の川にはまって溺れ死んだ』と。 不立という禅僧が中洞に住んでいて、光秀の弟宗三の子だという。この者が所持する古い感状には、次のようにある。 「今夜暫時の間に数万騎を討ち取り、木目・今庄・府中の三城を落としたのは、誰及ぶべくもない日本古今無双の働き、まことにもって言語道断である。当座の苦労に報いるため、わが家伝来の吉光の太刀、貞宗の脇差、馬を遣わす。おっつけ分国を遣わす所存である。 八月十七日 信長判 明智日向守殿」 こうしたことは時々ある。源義経、楠木正成などにも戦死に見せかけて逃れ隠れたという話があるから、光秀も美濃で生きていたと言うのだろう。 そもそも古人の伝記・系譜等には、誤り伝えてあらぬことを添えたものがあるし、こじつけて作ったものもある。 今となっては分からないことが多いのだから、しいてどれが本当とも決めがたい。 |
あやしい古典文学 No.671 |
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