堀麦水『三州奇談』二ノ巻「安宅石像」より

水箱の死人

 加賀の国の安宅の浜は古来よりの名跡で、越の高浜というのはここである。かつての加賀三湖の港で、持ち舟のある家が多い。浜には黒石・白石があって、世に安宅石という。
 義経・弁慶一行が越えたという新関の跡はどのあたりだろう。二ツ堂は砂浜に社灯が赤々とともるが、鳥居のいくつかは砂に吹き埋められて、上の笠木だけが見えているのも多い。
 大海に対して白山の景色が気高く映え、いかにも絶景である。浮柳から日末の地まで青松は青海に面し、白日は白砂にきらめく。一望してこの上なく清々しい。
 この地には、霊物が多い。湊にはスエリという魚が、晩春のころよく上がる。ショウロやボウフウがずいぶん採れるので、山遊びにもよい場所である。
 宝暦六年か七年あたり、異国の山が崩れて洪水になったとかで、沖へ大きな橋が流れかかり、松やその他の材木の類が多く打ち寄せて、周辺の浦々はかなりの利を得た。特にこの安宅が多かったのは、そもそも流れ寄りやすい場所だったからか。このときに限らず、折々いろいろ奇妙な漂着物がある。

 宝暦十年八月、大きな箱が流れ寄った。中に死んだ人が三人。
 うつぼ船だと噂されたけれども、その実は大船の水箱で、九尺四方の厚木で造り、かすがいを打った上に白土漆喰で固めたものである。大船が嵐で難破したとき、泳げない人などをこの箱に入れて天命に任すのだ。
 荒れ狂う海に投げ出されるのだから、すぐに岸へ着かないかぎり、人は箱の中で顛倒して死んでしまうが、死骸はいずれ何処かへ流れ寄る。
 この三人も、いかなる高貴な人だったか知れない。けれど定めないのが人の命で、こうして他郷の土に埋もれることとなった。あわれと言うほかはない。
 久しく郡代から身元を尋ねる触れが出たが、これという申し出もなかったようで、死骸は安宅の浜に埋め、水箱は壊して、亡き人の供養のためにと、近辺の橋板に用いられた。
 三人の塚には大法会がとり行われた。諸宗の僧が会葬して、ありがたい追福であった。
 しかしながら、海上で命を終わった無念があまりに深いのか、あるいは西洋人の耶蘇教徒で仏法を受けつけなかったのか、墓から毎夜火が燃え出ると、人々は言い交わした。

 宝暦十二年五月、二ツ堂の神主が霊夢を見て海中に石像があるのを感得した。
 海女を潜らせて場所を確かめてから、網をかけて引き上げた。高さ三尺六寸、舟形の石で、窪みのところに仏像に似た姿があった。
 そこで、公儀へはさしたるものでないように報告しておいて、別家に安置した。
 これを「じつは薬師如来で、霊験奇特がすこぶる多い」とうたって、五月二十日より八月十日まで九十日間披露に及ぶと、加賀・能登・越中の僧俗が引きもきらず参詣し、末世の不思議ともいうべきありさまとなった。
 このとき、かの三人の墓のあたりの浜に夕顔が生え出て、たった一晩のうちに大きな実が三つできた。石像に感応して成仏したしるしか、あるいは三人の故郷の氏神が石像に寄り来たったのか、などと人々は口々に噂した。

 しかし、島原の乱の際の「天草の枯木に花咲く」という予言の類に等しく、世間がとりはやすのと死者の料簡とは違っていたようだ。
 同じころ、小松の浜田というところの男が、安宅へ用事があって出かけた。風雨の激しい闇夜で、提灯を蓑の下へ隠し、ただ一人野中の細道をたどって行った。
 それでも、もともと近隣の村で祭礼の相撲にも呼ばれるほどの男だし、道もいつも行き通うところだから、何も怖いことはない。のんびり鼻歌気分でいたところに、はるか向こうから松明のような灯火をともして来る者がある。
「こんな風雨の夜道を行くのは、わしだけではなかったのか。きっと安宅の者だな。誰だろう」
 だんだん近づいてみるに、向こうの火の下は二三人連れのようだ。提灯と松明が打ち当たるほどのところで振り仰いで顔を見合わせると、みな鬼類の者だった。
 先頭の一角が生えて青面の者に驚いて、はっと顔を伏せているうちに、二三人の鬼形の者は、風の通るごとく一歩の足音もせずに行き違っていった。
 男はさすがに正気は失わなかったものの、顔色は草の葉のごとく、腰が萎え身をわななかせて、やっとのことで安宅へ走り着いた。
 先方の主人が、男の顔が死灰のようになっているのに驚いてわけを尋ね、委細を聞いてこう語った。
「もしやそれは、水箱の三人ではなかろうか。箱から出したとき、先に他の浦に着いて盗まれたとみえて、衣類を剥がれていた。頭蓋を損じて毛髪が抜け、鼻も潰れ、目は打ち寄って一つになったりしていた。それはもう見るに堪えないひどさだった」
と。

 その後、たびたび法会・灌頂などが行われ、怪事はなくなったという。
あやしい古典文学 No.672