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堀麦水『三州奇談』五ノ巻「武家怪例」より |
竹垣の怪 |
富山藩中の瀧川左膳の屋敷では、焼味噌が固く禁じられている。 下々の者でも、もしこの禁を忘れて味噌を焼いたりすれば必ず、見たこともない変な人が出てきて座敷に座り込み、長いこと立ち去らない。 どうしてそんなことになるのか、わけは聞き洩らした。 古市伊織の屋敷には、結い直してはいけない竹垣がある。この竹垣に手を出したら、たちまち屋敷の誰かが怪我をするのだ。 そのいわれを訊くに、さして昔でもない享保初年の変事が起こりだという。 元来、古市伊織という人は侠気に富み、剛勇をもって知られていた。 『好じては集まる』と言うべきか、家士に新蔵という者がいて、これまた無双の武術者であった。 この新蔵が、ある夜、主人の命で夜更けて使いに出た。 近隣に椎の大樹があって、ここを過ぎる者は必ず老婆に遭う。赤子を抱いており、それを往来の人に投げて脅すのだ。抜刀して赤子を斬ると、なんと石で、ついには老婆のために肝を失って逃げ帰る始末となる。 それゆえ、夜更けて通る者はいない。朋輩の家士に以前この老婆に脅された者がいて、新蔵に忠告した。 「気をつけろ。用心して通れ」 新蔵はあざ笑って出かけたが、話のとおり椎の樹のもとで妖婆に出遭った。 たちまち婆は恐ろしげな赤子を投げてよこす。新蔵は抱きつく赤子を少しも構わず、おどりかかって樹下の婆を抜き打ちに斬る。 「わっ」 と一声して、婆は消え、赤子も失せた。 新蔵は刀を収めて使いをつとめ終え、家に帰って主人に報告し、朋輩にも話した。 人々が、 「老婆を斬り留めなかったのは残念だった」 などと言いながら刀を抜いて見ると、物打から切先まで朱になって骨引疵がつき、思い切り打ち込んだものとわかった。 主人も感心して、夜が明けてから現場を見に行った。 血を伝っていくと、古市屋敷の後の植え込みに大きな穴があって、その中へ続いている。土を掘り返すと、かの竹垣の下と思しいところに、年とった狢(むじな)が死んでいた。 人々は新蔵をたたえた。話はやがて国主にも聞こえて、 「新蔵に暇を出せば召し抱える」 との打診もあった。伊織は惜しんで、 「譜代の家臣ですから」 などとさまざまに言い逃れ、公儀へ召し出されないようにはからって家に置いた。 いきさつを聞いて、新蔵は主人を恨んだ。以後は気性が荒くなり、それまでの新蔵とは別人のようで、いずれ出奔する心があるようにも思われた。 その後、主人が外に遊ぶことがあって、新蔵は下僕を伴って迎えに行ったが、 「まだ早い。待て」 とのことだった。それなら後でまた来ようと、下僕とともに近くの娼家に入って酒を飲み、酔いつぶれて主人の帰りを逸した。 新蔵は下僕に言った。 「今はもう仕方がない。主人の日ごろの気質からして、必ずやただでは済ますまいと思う。わしがまず屋敷に帰って、お前の着物や持ち物を取って来てやる。それを持って夜のうちに逃げろ。わしは一人で屋敷に残る」 そうして、古市屋敷の七尺の高塀を苦もなく躍り越え、下僕の物を持ってきた。下僕が、 「あなたさまも一緒にお逃げください。夜が明けたら命が危ないです」 と言うのを笑ってさえぎって、 「わし一人の手の中に百人の味方がある。主人が一家をこぞって取り巻いても、白昼に切り抜けて立ち去るのは大路を行くに等しいたやすさだ」 下僕は悲しんで去らない。 「あなたさまの意気込みはわかりますが、主従は天の定めです。そのようにして白昼に立ち去れば、主人の家禄を永く絶つことになりましょう。わたくしは今、あなたさまのことも主人のことも心配です。行くわけにはまいりません」 新蔵はなだめて、 「わかった、わかった、わしも後から行く」 と言い、下僕を逃がすと屋敷に立ち帰って、高いびきで寝てしまった。 夜が明けた。 主人は夜中に下僕が逃げたと聞いていよいよ怒り、新蔵を座敷の庭で手討ちにしようとした。 新蔵は一言も詫びず、 「心のままになさるがよい。だがその前に、主従の縁を切っていただきたい。そのうえで、快く敵手となって技を尽くしましょう」 主人はそれを許さず、抜き打ちに斬りつける。新蔵は露地下駄を取って刀を受け留め、なお主従の縁を切るよう求めた。 続いて刀を抜いて切り結んだが、主人の勢いに押されて後退し、隅の竹垣のところに至って、後ろざまに跳び越えようとした。 が、どうしたわけか袴の裾が竹垣に引っかかって越えられず、倒れて逆さまになる。主人がすかさず打ち込んで、太股から脾腹にかけて斬りこんだ。 深手を負って、新蔵が大声で言うには、 「伊織、伊織、わが運はすでに尽きた。引き起こして止めを刺せ。このまま斬らば武名を汚すぞ」 その声の凄さ、歯がみする音が雷鳴のごとく、さしも剛力の伊織も近づくことができず、槍をとってめった刺しにして殺した。 これにより古市伊織は、富山藩中で面目を失うこととなった。 それにしても、新蔵が跳び損ねた竹垣は、日ごろなら物の数にもしないような高さだった。なのに、このときばかりは袴の裾がかかって、いかに引き破ろうとしても離れなかった。不可解なことに思える。 そこがかつての古狢の穴の上だったから、世の人は「古獣の妖気が仇を報じたにちがいない」と語り合った。 以来、竹垣にはいよいよ霊気がこもって、人がみだりに寄らないところとなった。まして垣を結い直そうなどと企てたときには、必ず凶事があるとのことだ。 |
あやしい古典文学 No.673 |
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