森春樹『蓬生談』巻之四「長崎丸山の遊女の手に入りたる霊の事」より

遊女の手に棲む霊

 かつて筆者は長崎の妓楼にあがって、角の筑後屋の姿野という遊女から話を聞いた。

 姿野の先輩女郎にあたる松の香が、磯五郎という客と深い馴染みになり、磯五郎は松の香を身請けしたいと思ったが、母親が決して承諾しなかった。
 叶わぬ思いがつのった末に、磯五郎は労咳を病んだ。常に松の香のことばかりを口にして、病はいよいよ重くなり、命も危うい容態となった。
 母親にとって磯五郎は大事な一人息子である。
「こうなっては仕方ない。あの女を家に迎えることにするよ」
と許したが、磯五郎は、
「母さん、今さら遅い。わたしの命はもう幾許もないのに、迎えてなんになりますか」
と言って、ほどなく死んだ。

 磯五郎の霊は、松の香の手に入り込んで、彼女を悩ますようになった。
 ある日、松の香は手に向かって、人に対するように語りかけた。
「あなたさまが深く心に懸けてくださることは、とても嬉しいのです。できるなら御一緒に冥土へと思うけれど、いまだ死なない身には、それができません。やがていつか死んだときには、必ずあなたさまのもとへ参り、御心のままになりましょう。それまでは、この手の中にいらしてください。でも、今のように総身を悩まされては、苦しくてなりません。勤めも休むしかなく、そのせいで廓奉公が長くなって迷惑します。ですから、きっと悩まさないで。わたしの手に棲んで、気長に待っていてくださいね」
 霊は聞き分けたのか、その後は悩まさなくなった。

 そうして勤めを続けること二年ばかり、ある時、朋輩の女がふと冗談で松の香の手首をとって、
「磯五郎さん、磯五郎さん」
と呼んだところ、松の香の人差し指がやおら曲がってぴくぴく震え、次に親指も曲がった。
 その後は、退屈で物寂しいときなど、
「磯五郎さんを呼びましょう」
と言うようになった。松の香はそのたびに心地が悪くなるからと断るのだが、時々は呼び出されてしまうのだった。

 松の香は、今は年季が明けて、某町の商家の内儀になっているとのことだった。
 某町は当時、筆者が折々往来するところで、たまたま寺参りなどする様子で行く彼女を、従僕の吉兵衛がよく見知っていて、
「あれが松の香ですよ」
と教えてくれた。
 その後も二三度見かけた。
 さほどに艶っぽい容色でもなく、ひっそりした感じの小柄な女であった。
あやしい古典文学 No.676