森春樹『蓬生談』巻之五「播州さこしの沖にて日暮前波の上を歩き行きて来りし霊の事」より

海を歩く女と男

 豊前中津の下小路浦の船頭 紙屋市右衛門が、最近の話だといって語った。

 瀬戸内の播州坂越(さこし)港の一里ばかり沖で船が汐待ちして、乗り組みの者が夕飯などしたためようというとき、日没前の赤い夕陽の照らす中、坂越のほうから一人の女が海の上を歩いてきた。
 女は船を覗いて、声をかけた。
「もし。歳のころ二十ばかりで、わたしと同じような着物を着た男を見かけませんでしたか」
 その姿はといえば、美しい衣装を肩ぬぎにして肌着は華やかな縫取りの、優美にして艶っぽい様子で、年齢十七八と見えた。
「そんな人は来なかったなあ」
と応えると、不審らしい面もちで暫時立っていたが、一礼して立ち去った。
 行方を見送るに、室津のほうをさして、やはり波の上を陸路を行くように歩いていった。
「夜ならば幽霊というべきところだ。だが、まだ昼の明るさの内だし……」
「いやはや、不思議なものだったな」
などと話し合っているところへ、また坂越のほうから海上を歩いてくる者がある。よく見れば男で、しかも先の女が言ったとおりの人だった。
 この男も船を覗いて、女のことを訊いたので、
「あんたのことを尋ねに来て、それから室津のほうへ行ったよ」
と教えると、
「やっ、そうでしたか」
と言って、急ぎ足でそっちへ向かった。
 船の者たちは、いよいよ不思議に思いながら夕飯を終えて、汐もよくなったので坂越の港へ入ると、ちょうど今、海の中から男女の死骸が浜へ担ぎ上げられたところだった。
 立ち寄って見ると、さきほど沖で出会った男女に相違ない。
 事情を聞くに、心中したらしく、男は土地の相応の家の子、女は大坂から来た芸妓だという。

 筆者は思うのだが、これは先に絶命した女の霊が男の霊のいないのを尋ね行き、後から絶命した男の霊もまた女の霊がいないので慌てたのだろう。死して互いの執心が、互いを捜し求めていたのにちがいない。
あやしい古典文学 No.678