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森春樹『蓬生談』巻之四「江戸深川の揚屋の幽霊の事」より |
揚屋の幽霊 |
筆者の父が代官のお供をして江戸へ赴いた時のこと。屋敷に出入りの商人の中に、ことのほか顔色の青い男がいた。 「何ゆえ顔がそのように青いのか」 と尋ねると、 「はい。これは生まれつきではなく、こうなったわけがあるのです」 と答えて、次のような話をしたそうだ。 ある年の十月末の夜、男は商用で深川へ行って遅くなり、『この夜更けに一人歩いて帰るよりは、旧知の揚屋へ行って泊めてもらおう』と思った。 ところが、その家に立ち寄ってみると、なんだか様子がおかしい。以前なら「泊まれ、泊まれ」と親切に言ってくれたものなのに、その夜は通りいっぺんの挨拶をするだけで、引きとめる素振りもない。 こちらから、 「今宵はあんまり遅くなった。夜歩きには寒さがこたえる時節だし、こちらに泊めてもらいたいのだが」 と言うと、夫婦顔を見合わせ、 「ああ、そうか。では、泊まってくれ」 承知してくれたものの、何か気の進まぬ事情がありそうだ。 「もしや、取り込みごとでもあるのではないか。迷惑なら、遠慮なくそう言ってくれ。帰ることにするから」 と言うと、 「いや、さしたることはない。少し気がかりがあるが、ちっともかまわないよ。泊まるがよい」 こう応えて、二階に床を敷いて寝かせてくれた。 しばしの間まどろんだらしい。ふと目覚めると、枕もとに齢二十一二と見える女が座って、さめざめと泣いていた。 「おまえは誰? なぜ泣いてる?」 すると、女が顔をふり向けた。 「わたしは、ここの家に勤めていた女郎です。勤めようが悪いといって親方に折檻され、両手の指先を切って捨てられました。ほら、このとおり……」 差し出した手の十本の指先から迸る血が、寝ている男の顔にさっと注いで、その底知れぬ冷たさと悲しさに、気も遠くなりそうだった。 思わず身を起こし、帯を引きずりながら階下へ這い下りると、夫婦は差し向かいで鉦を打ち鳴らし、しきりに念仏を唱えている。 「これは何ごとだ」 と問うに、亭主が梁の上を指さすので、仰向いて見ると、梁に女の首ばかりが七つ八つ並んで、あるいは笑い、あるいは舌を出すなどした。その時、夫婦はいちだんと息を急き、死に物狂いで念仏を唱えるのだった。 このさまを見ては、とてもその場に居られるものか。 土間に跳び下りて戸口を開けようとしたが、かたく錠が鎖されて開かない。戸を蹴倒して外へ出て、無我夢中で走って七八町も来たところで夜が明けた。 このとき恐怖で真っ青になった男の顔は、今なお元に戻らない。 その後、揚屋の夫婦の姿は深川から消えた。近辺の者に尋ねても、どこへ立ち退いたのか、誰も行方を知らなかった。 |
あやしい古典文学 No.687 |
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