森春樹『蓬生談』巻之五「蛇神海部郡佐伯に在りて其の家に美人ある事」より

蛇神の家

 蛇神というものは中国にあるとのことだが、実はわが豊後の佐伯にもある。
 筆者の友人で岡に住む海部屋佐兵衛が佐伯へ行ったとき、『蛇神の家に美人がいて云々』と聞いて興味を抱き、つてを求めてその家を訪れたところ、医業を営む裕福な家であった。
 主人の妹は齢三十四五、非の打ちどころのない美顔美質で、しかも物静かで才気に富んでいた。ものを縫うことなども優れていたそうだ。

 この女は、以前に伊予の宇和島の和霊明神に参詣したとき、その様子に一目惚れした豪家の子息が仲人を立てて求婚し、ついに迎えられて妻となった。
 しかし、宇和島にあること三四年の後、婚家は、これといった事由もないのに、
「おまえは久しく里帰りしていないから、年始の挨拶にでも行くがよい」
と言って、店の者や下女を付けて実家へ遣り、そのまま離縁した。
 もっともその際、金六百両を手代に持たせ、女の生涯の用に充てるようにと贈ったとか。

 委細を土地の者にそれとなく尋ねると、『悲しいことに蛇神の家の女ゆえ、平生の落ち着いているときは何事もないが、少し腹を立てたり、思うにまかせず歎いたりすると、眼の端、あるいは鼻の中、耳の穴から、蛇の舌がちらりちらりと出る。そのせいで離縁になったらしい』と語ったそうだ。
 奇怪なことである。
あやしい古典文学 No.692