加藤曳尾庵『我衣』巻五より

肥桶の始末

 文化六年四月二十日、小石川の水戸屋敷前を、四尺ばかりの朱鞘の大刀に小刀を添えて差し、小倉の袴を着て頬髭をたくわえた大男の侍が通りかかった。
 向こうから来た肥取りの百姓が何気なくすれ違うとき、肥桶があやまって刀の鐺(こじり)に当たったから、侍は激怒して、
「この慮外者め」
と散々に罵った。
 肥取りの百姓は大いに恐れ、平伏して詫びたが、聞き入れない。そうこうするうち見物が多く集まったので、水戸屋敷の辻番も出てきて、棒を組み合わせて道の往来をとどめた。
 百姓は桶を担ぐ天秤棒を両手の下に置いて、ひたすら平身低頭して詫びている。侍がいっこう納得しないのは、辻番人の見る前で引っ込みがつかなくなったのだろうか。ついに腰の大刀を稲妻の如く抜きはなち、肥取りをただ一太刀にと切りつけた。
 あわれ真っ二つと見えた肥取りだが、石火の早業で手元の棒を取り、頭上に来る刃を払いのけると、うなりを上げて振るった棒の勢いに刀は弾き飛んで、数間先の大どぶに落ちた。
 侍が狼狽する隙に、肥取りは人ごみの中をすり抜けて、飛鳥のごとく行方をくらました。

 あっという間の出来事で、辻番も見物衆もただ呆然とするばかりだった。
 かの侍は仕方なく袴の裾をまくり上げ、そろりそろり大どぶに入って刀を拾い上げると、手拭で汚れをふいた。それから辻番所に上がって、
「まことに心外なことになり、面目もない次第で……」
などと挨拶し、すごすごと出て行った。
 ところが、しばらく行ったところで、辻番が二人追いかけてきて、また番所へ引き返すことになった。番人の言うことには、
「屋敷前で人を殺められたのであれば、先例により難しい取り扱いとなったところでした。貴殿が成敗し損じたので、その心配は無用ですが、あの者は肥桶を一荷置き去りで逃げてしまいました。屋敷前に糞尿の桶とはまことに不浄ですから、取り片付けていただきたい」
 侍は困った。
「それはなるほどご迷惑でしょうが、しばらく置いておかれたら、さっきの肥取りが戻って持っていくのでは……」
 しかし、番人は承知しない。
「そもそも貴殿とあの者が起こした騒ぎです。相手を討ち果たしたならともかく、取り逃がしたのだから貴殿の不手際。肥桶を片付けないとおっしゃるなら、ご直参かいずれのご家中か、姓名なども質した上で、当家として筋を通すことになります」
 侍は理詰めに迫られて返す言葉がなく、赤面の体であったが、やがて、
「わかりました。片付ければいいんでしょう。片付けますから、桶を運ぶ担い棒をお貸し願いたい」
と折れた。
「番所に担い棒はありません。代わりに六尺の樫の棒をお貸しします」
ということで、古くなって少し反り曲がった棒を渡され、憮然たる面持ちで肥桶を担いで、牛込揚場の方へと大小袴羽織姿で行くのを、居残っていた見物衆が、大声こそ上げないがひそひそ囁き合いつつ、付いて行ったという。

 現場を見た人から聞いた話として、このごろ巷で評判である。
あやしい古典文学 No.699