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菅江真澄『筆のまにまに』より |
亀が鳴く |
三河の渋谷という所で、田植え時分の夕方に怪しい声を聞いた。 「鳴いているのはどんな鳥だろうか」 などと話していると、連れ立って歌いながら家路をたどる早乙女が聞きつけて、 「亀が鳴くんだよ」 と教えてくれた。 「ほんとに亀が鳴くのかね」 思わず聞き返すと 「そうだよ。泥亀が水から繰り返し首をもたげては、あんなふうに鳴くんだ」 と言う。 なるほど。スポン、スポンと鳴く声から「スッポン」の異名がついたのか。 『新撰六帖』にある藤原為家の歌、 川越しの遠(おち)の田中の夕やみになにぞと聞けば亀ぞ鳴くなる の真の情趣がはじめて分かった。泥亀を詠んだ歌だったのだ。 『閑田耕筆』の「物ノ部」には、次のようにあった。 「亀の看経(かんきん)ということが世に伝えられている。私はじかにそれを聞いた。まことに拍子よく音の堅い鉦を打つようで、はじめは雨だれ拍子だが次第に急になって、俗にいう責め念仏の感があった。鼈(どろがめ)をスッポンというのも、その鳴く声による。間をおきながらスポン、スポンと鳴くのを、夜になって聞いた」 まったくその通りで、いよいよ為家の歌の情(こころ)を確かにするものだ。 あるいはまた、泥に頭を突き込み突き込みしながら鳴くという。三河・尾張の方言に「鼈(とち)」と言うのは、泥突きの意ではあるまいか。 |
あやしい古典文学 No.701 |
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