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『諸国百物語』巻之一「河内の国闇峠道珍天狗に鼻はぢかるる事」より |
くらがり峠 |
河内ノ国くらがり峠という山奥の道を行ったところに、ひとつの寺があって、道珍という人が独りで住んでいた。 道珍は五十一歳の年まで恐ろしいということを全く知らず、『ああ、ちょっとでも怖い目に遭いたいものだ』などと思い、人にもそう広言していた。 あるとき今口という村へ招かれて行き、折から雨が降ってきたので、やむのを待つつれづれに日暮れ方まで話をして帰途についた。 その道の途中に石橋がある。来るときにはそこに何もなかったのに、戻りには死人が横たわっていた。 不思議に思いながらも、恐れを知らぬ人なので、死人の腹を踏んで通ったところ、死人が道珍の衣の裾を咥えて引き止めた。道珍あわてず、『おや、腹を踏んだせいで死人の口が閉じたんだな』と考えて、もう一度腹を踏むと、口が開いた。 「貧乏で寺へ送ることもできず、こんなところに捨てたらしい。わしが埋葬してやろう」 死体を引き起こし、背中に負って帰ってから思ったことには、『こいつには、裾を咥えた罪科がある。その罰として今夜は縛っておき、夜が明けてから埋めよう』。 差縄で死体を松の木に縛りつけると、自分は寝間へ入って眠りに就いた。 その真夜中、門のほうから、 「道珍、道珍」 と呼ぶ声がして目がさめた。 「何ものだ。夜ふけにこんな山中までやって来たのは」 「おい、道珍。なんで我を縛るのだ。早く縄を解け」 どうやら死人の声らしい。驚いて返事をせずにいると、 「縄を解きに来ないなら、こちらから行くぞ」 言うやいなや、ふつふつと縄を切る音がして、豪胆な道珍も背筋に冷たいものが走った。 ふだん遣い慣らしている大脇差を取り出し、戸の掛金をかため、身をすくめていたが、その間にもはや戸をこじ開けて入ってくる。『こうなったら仕方ない。やるだけだ』。脇差を抜いて納戸口で待ち伏せた。 死人がここかしこと探し回るところを、横合いからはっしと斬りつけると、死人は片腕を落とされて消え失せた。 斬った腕を取り上げて見れば、針のような剛毛が生えてなかなかに恐ろしい。凄いものを手に入れたと思って、長持にしまい込んだ。 やがて夜が明けた。 里に住む道珍の母は、寺へ毎朝参詣するのだが、この朝はまたいちだんと早く来て、まだ寝ている道珍をたたき起こした。 急いで起きて、 「いつもより今朝は早いお参りですな」 と言うと、母は、 「昨夜の夢見が悪く、心配になっての。何事もなかったか」 と問う。そこで怪事のあらましを話した。 「そうだったのかい、驚いたねえ。……では、その恐ろしい腕とやらを見せておくれよ」 道珍は断ったけれども、是非にと所望するので、やむをえず取り出して見せた。すると母は片手を懐手にしたまま、もう一方の手をのばして例の腕を引ったくり、 「これこそ我が手だ」 と叫んで、消すがごとくに失せた。 にわかに今まで晴れ渡っていた空が暗闇となり、虚空に大勢が鬨の声を作ってどっと笑った。その衝撃で、さすがの道珍も気を失って顛倒した。 本当の夜明けになって、いつものように母が参詣に訪れた。 道珍が気絶しているのを見て仰天し、いったん里へ下りて人を連れて戻ってくると、気付け薬を飲ませるなどいろいろ介抱した。 しばらくして蘇生した道珍は、人々の問いに一部始終を物語った。その後は日本一の臆病者になったそうだ。 これは、道珍のあまりな高慢を憎んで、天狗がなしたわざなのだという。 |
あやしい古典文学 No.710 |
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