松浦静山『甲子夜話』巻之二十三より

恐ろしい人

「世の中には、恐ろしい人がいるものだ」
 そう言って、平戸城下の酒屋に何処からか奉公に来た下男が話したそうだ。



 むかし俺は、街道筋に根を張って夜盗渡世をしていた。盗人仲間数人で、夜毎に道沿いの小高い場所に打ち寄って博打をし、往来する人を見れば追いかけて金品を奪うのだ。
 その晩も、一人の武士が通りかかった。多額の金子を懐中に持っている様子だったので、皆々立ち出でて行く手をふさいだ。
「のう、お侍。われらはいずれも文無しで困っている。なにとぞ貯えの金子を、そっくり恵んでくだされ」
 武士は落ち着いたものだった。
「なるほど、懐中には金三百両ある。望みならおぬしらに遣ろう。この金は近在の大庄屋への借財の返金で、今夜返さないと庄屋の家が潰れてしまう。それでも、望みとあれば遣らないでもない。今から腕ずくの勝負をして、勝ったほうのものとしよう」
 なにしろ若いときのことだ。相手の言いようを甘く見て、
「おう、やってやろうじゃないか」
と仲間そろって身構えると、武士はまず手近な松の高さ七八尺の枝を捉えて引き撓め、梢に金三百両を落ちないように結わえつけた。手を放すと、金子は高く上がって手が届かない。
「いざ勝負」
 武士が腰の大小を抜き放つと、盗人仲間五六人と一緒に襲いかかったが、あっという間に二三人が斬り伏せられた。
 仲間は悲鳴をあげて逃げてしまった。一人残った俺は、斬り立てられて手を負い、後ずさりするうち、そこにあった空堀に落ち込んだ。
 追ってきた武士は、
「もう死んだかな」
と独りごとを言いながら、闇の中、刀を堀に差し入れて探ってくる。『やばい。動けば殺される』。俺は、じっと息を殺していた。
「こいつも、くたばったようだ。よしよし」
 武士はそう言うと、おもむろに上から小便をかけた。次に先ほど結わえつけた松の梢の金子を取り、中身を確かめてから懐中に収めて行き去った。
 遠ざかる後姿を見るうち、いちだんと恐ろしさが込み上げて、俺は影の闇に消えるのを待って堀から這い上がると、一目散に逃げ走ったのだ。
 その後は『盗みも命があってこそ。命をなくしては元も子もない』と思って、盗賊稼業からふっつりと足を洗い、こうしてかたぎの奉公人をやっている。
 今思い出しても身の毛がよだつよ。



 その武士、じつに大胆不敵の勇者といえよう。
あやしい古典文学 No.718