『曾呂利物語』巻之一「ばけ物、女になりて人を迷はす事」より

町屋の娘

 ある武士が、仕官先を求めて加賀の国へ赴き、町屋に宿を借りて住んでいた。
 武士は、宿の娘の姿かたちが美しいのを物陰から見初めて以来、ひたすら恋慕するようになった。
 どうしたものかと思い悩んだ末、家来の侍を間に立てて、幾度も想いの深さを伝えたところ、娘も次第に心を動かし、互いに睦まじい仲となった。
 もとより人目を忍ぶことであるから、夜が更けて人が静まってから、娘が男のところへ通ってくるのが常だった。

 ある夜、娘が男の寝間に来ているとき、宿のあるじの部屋あたりからも娘の声がした。
 二人の仲立ちをした家来が変に思って、あるじの部屋まで行ってみると、まぎれもない娘その人が座っている。
 あまりの不思議さに、とりあえず主人の武士を寝間から呼び出して、「しかじか……」とことの次第を囁いた。
 武士は『きっと変化のものが我が心をたぶらかそうとするのだろう』と思い、何気ない様子で娘のもとへ戻り、抱き寄せると同時に一刀を刺し通した。
 「あっ」と叫ぶ声とともに、娘の姿は見えなくなった。

 夜が明けて、血の跡があったのを辿っていった。
 二里ばかりで山道となり、さらに山また山を分け入ってみれば、大きな岩穴があって、中に娘の死骸が横たわっていた。
 妖怪と思われたその死骸は、日数が過ぎて正体を現すわけでもなく、通常の死人のように腐り、涸れていった。
 一方、殺されなかったほうの娘は、相変わらず宿にいて、従来の様子となんの変わりもない。
 どういうわけなのか、理解できない出来事である。
あやしい古典文学 No.722