森春樹『蓬生談』巻之三「蛇の妖さまざま多き事」より

蛇の妖

 大蛇小蛇を問わず、蛇についてはさまざまな話がある。
 話はそれぞれ違っても共通する点は、蛇というものがいたって執念深く、一度思い入れたら最後、わが命をもかえりみないということだ。

 豊後の岡城下、下夕町に、蛇を見れば必ず殺す人がいた。
 ある日、近辺の石垣の間に入っていく蛇の尾をとらえて強く引っ張り、半ばで千切れたのを持ち帰って自宅の掃溜めに捨てた。
 翌朝見ると、千切れた頭のほうの半分が夜の間に来て、尾のほうと一緒に死んでいた。

 わが日田郡の小迫村では、某年六月二十八日の朝、ある百姓が秣(まぐさ)を刈っていて、蝮の首を草とともに切ったところ、その首がたちまち消えて見えなくなった。
 翌年の六月二十八日、小雨の降る朝に同じところで笠を着て草を刈っていると、誰かが笠の上に礫かなにか投げつけたような音がして、転げ落ちたものを見れば蝮の頭だった。
 ふと去年のことを思い出し、
「そういえば今月今日のこの場所だった。笠がなかったら、きっと頭に喰いついて大変な目に遭っていたところだ」
と、身の幸運を喜んだ。

 その隣村の渡里村では、百姓の家の燕の巣に夜、蛇が入ったのを主人が憎んで打ち殺し、死骸を畑の端の墓所の傍らに埋めた。
 二十日あまり過ぎて、黒い山蟻がおびただしく家の周りに群れていたが、気にすることなく家内みな田に出て、昼飯時に家へ帰ってみたら、数千万の蟻が柱を登って燕の巣へと入っていた。
 巣を覗くと、三羽の雛に真っ黒に蟻が取り付いて、皆死んでいた。
 これは何事かと、蟻の来るほうを辿っていったところ、先月に蛇を埋めた場所から出てきていた。
「死骸が腐って蟻と化し、念をかけた燕の雛をついに取ったにちがいない」
と、渡里村の長善寺の懲燈坊が語ったそうだ。

 肥後熊本の村井椿壽翁が、先年わが家に来られたときの話で、翁の薬を貰いに来る百姓のことだ。
 その百姓は、ある日、山で蛇が雉子(きじ)に巻きついているのを見つけ、打ち離して雉子を手に入れ帰路につくと、蛇は後ろから執拗につきまとった。
 かまわずにおいたが、一里ばかりも追ってくるので腹に据えかね、草刈鎌で打ち払った。蛇の首一二寸のところを断ち切って、飛んだ頭はどこへ行ったのか見えなかった。その場で死んでいる胴のほうは、腹の鱗がすべて山道の土で磨れ破れていた。
 その夜、家で雉子を料理し、鍋で煮ているときに、棚の鶏が一羽舞い来て、鍋をかけた自在かぎの上にとまって大量の煤を落とした。
 とても食えないので、鍋ごと持ち出して門前の小川に捨てたところ、昼間に見失った蛇の頭が鍋の中から出てきた。
「それで鶏があんなことを……」
と納得したのが春のことで、その年の秋、門前の小川には泥鰌(どじょう)がたくさん集まった。
 それを捕って泥鰌汁にしようと煮ていたとき、またもや鶏が舞い来て煤を落とし、あまつさえ糞まで垂れた。
 主人は怒って鶏を打とうとしたが、老父がおしとどめた。
「春にも、この鶏が教えてくれたではないか。今度も何かわけがあるのだ。この汁を食ってはならない。捨てよ」
 いかにもそうだったと気づいて、また小川に捨て、翌日見ると、泥鰌と見えたのはみな蛇の子で、それがすべて煮られて死んでいたそうだ。
 蛇の報復を鶏が二度にわたり教えたのはまことに不思議なことだと、翁は語ったのである。
あやしい古典文学 No.726