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浅香山井『四不語録』巻六より |
河獺の怪 |
加賀ノ国金沢城の外惣構掘のあたりに、柿畠という所がある。そこに年経た獺(かわうそ)が棲んでいて、たびたび害をなした。 少し前にも、人をたぶらかしたあげくに殺した事件として、こんなことがあった。 沢野という侍がいて、柿畠の近辺に屋敷があった。 そこの若党の某が、用事があってわが家に寄り、暮れ時に屋敷へ戻る道で、少し先を女が一人、綺麗な着物を着て菅笠を深くかぶって行くのを見た。 若党は元来色に迷いやすい性質だったので、すぐに声をかけた。 「もう日も暮れようかという時に、下女も連れず何処へ行かれる。女の一人歩きは不用心なれば、手前が送り届けてさしあげよう」 女は笑って、 「わたしは宿なしの遊び女ですから、ご心配には及びません」 と答えたが、若党はいっそうその気になった。 「それならば、見苦しい宿ではござるが、手前の部屋へなりと立ち寄られよ」 この誘いに女は振り返って、どうしようかと心迷う風情。若党は『よし、うまくいくぞ』と喜んだ。 『だが、どんな女なんだろう。顔を見よう』。近づいて覗き込んだところ、笠の内には何やら凄まじい気配が満ちていた。 ゾッと戦慄して、『これは、例の妖怪にたぶらかされたか』と足早に立ち去ろうとしたが、女はいつの間にか先に立って、 「急に逃げるなんて、つれない仕打ちね」 と言う。 いよいよ怪しく思い、しばらくその場に立ち止まると、女は今度は後ろにいた。 「そっちから誘ったじゃないの。ひどいわ」 そのようにして前後する素早さは蝶か鳥のごとくで、若党は途方にくれ、懸命の早足で主人の家まで帰りついた。 門の戸が少し開いていたところに走り込み、慌てて戸を閉めたが、女は先に入っていて、 「この情なし男。浮気者」 となじるのだった。 若党はどうしようもないまま、部屋に入って朋輩たちに委細を語り、 「これ以上あの化物に逢うことは堪えられない。なんとかうまい具合にとりなして、追い返してくれないか」 と頼んだ。 朋輩たちは、代わる代わる出て女と話した。部屋に入っても菅笠を脱がないので、 「笠を取ってはどうか」 と言ったが、女は拒んだ。 「ここまでお供してきた方に逢ったら取りましょう」 たしかに只者ではないので、逢わすわけにはいかないと思うのだが、夜が更けるまでこのままにしてもおけない。皆であらためて相談の上、 「かの者は主人の用事をしていて、いつになったら暇があくのかわからない。まずは笠を脱いで、心やすく休まれよ」 と再三言ってやったが、どうしても笠を取らなかった。 「何時まででもお待ちします。暇になったらお目にかかれるよう計らってください。そのとき笠を取りましょう」 皆々扱いかねているうちに、夜も深更に及んだ。 「どうやら今夜じゅうには用事が片づかないようだ。しばらくでもお休みになられよ」 と言うと、女はけらけらと笑った。 「とっくにお暇になっていながら、お出ましにならないようだから、もう仕方がない。こちらからお迎えに参ろう」 このとき初めて笠を脱いで手に持ったが、その面体を見るに、六七十ばかりの老女で、剥き出した両眼がギラギラと輝き、二目と見ることができない凄まじさ。 そのまま立って戸口を出ると見えて、姿はかき消えた。 かの若党は別の間に寝かせ、朋輩たちが戸の外で番をしていた。 にわかに若党が大きな呻き声を上げたので、驚いて中に入ってみると、すでに息絶えていた。 『あの妖怪が喰い殺したのか』と死骸を検めてみたところ、陰茎・陰嚢ともに引き抜かれ、傍らに捨ててあった。 |
あやしい古典文学 No.731 |
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