『岩邑怪談録追加』「登富屋町某の妻の亡霊の事」より

無責任な人

 笛を吹くのを好む人がいた。
 我が家では傍で人声などがして気が散るので、毎夜、普済寺という寺の境内まで行って、人気のない夜中に思う存分吹いた。

 ある夜、少し疲れたところで墓石に腰掛け、吹いていたところ、足首をぐっと握るものがあった。その手の冷たいことは、まるで氷のようだ。
 しかし、その人は動ぜず、一曲を奏し終わった。それから、
「わしの足を握るのは、いったい誰だ」
とおもむろに問うと、ひどく痩せ蒼ざめた女が忽然と現れた。
「わたしは生前、登富町の何某の妻でした。病で死のうとするとき、夫は『決してほかの女と添わない』と固く誓ったのに、死んで間もなく今の妻を娶り、むつまじく暮しています。それを見るにつけ妬ましく、あの妻を取り殺してやろうと度々家の前まで行くのですが、戸口に張ってある一つの御札のために、怖じて入ることが出来ません。お願いですから、御札を取り除いてください」
 涙ながらに頼む女に、その人が、
「たやすいことだが、何某宅がどこにあるか、知らんからな」
と応えると、
「いえ、それはわたしが陰ながらお供して、ご案内します」
と言うのだった。
 そこで寺から道を下り、登富町に至ると、また女が現れ出た。
「ここです。あの御札ですよ」
「おお、これか。よしよし、…………そら、取ったぞ」
 女は嬉しげににっこり笑って、かき消すように見えなくなった。
 と同時に家の中から、ただならぬ叫び声が上がり、たちまち止んだ。

 後に聞けば、その夜、その家の妻が急死したのだそうだ。
あやしい古典文学 No.734