平秩東作『怪談老の杖』巻之四より

質屋の娘

 江戸本郷二丁目の八百屋お七のことは、日本中に言い伝えて知らぬ人がいない。
 世の中に恋で身を亡ぼした者は何万人と知れずある中で、かくまで言い騒がれて姿も心も思い偲ばれるのは、お七その人の幸せといおうか、不幸せというべきか。

 この類のことは、世に多くある。
 やはり本郷二丁目、ただし八百屋ではなく質屋で、紙・油なども売る家があった。ひとり娘がいて、姿かたちは清らかだし、気だても上品で優しかったから、見る人で恋慕しない者はなかった。
 隣の店の手代に、武兵衛という男ぶりもなかなかの者がいて、その娘に深く思いをかけ、なんとか気持ちを打ち明けたいと願っていたが、時おり顔を見かける程度で、話しかけるきっかけもない。
 どうにかして家に出入りしたいものだと手立てを考えているうち、娘の母親が歌を詠むのが好きで、正月十五日前は下女や娘などを相手に歌の会をすると聞き及び、絶好の機会だと喜んだ。
 うまく言って母親のほうと近づきになり、歌の会に一夜二夜ほど行ったが、娘はまるで無関心で見向いてもくれないから、じれったいこと限りない。
 それならばと、つてを求めて手紙を遣ったところ、娘は手にも取らず、顔を赤らめて、
「隣の若い者がこんな文を……」
と母親に告げた。それで、武兵衛は歌の会に二度と呼ばれなかった。

 以来、質屋は用心して娘を外へ出さなくなり、姿さえ見ることができない。
 『塀越しに声を聞けないか。節穴から顔でも見えないか』と、武兵衛は馬鹿みたいに思い惑った。裏の下水に流れる水を『隣の娘の行水のあとでは……』と指をつけて嘗めたりするのを、たわけと言えばそれまでだけれど、まったく恋ほど切ないものはない。
 事情を知った人が不憫に思って、なんとか仲を取り持とうと、娘にあれこれ言ってやったが、よくよく生真面目で融通のきかない性分とみえて、なびくどころか後には悪口まで言うようになった。
 そのことを聞くにつけ、武兵衛も『くやしいなあ。奉公人でない人並の身上なら、こんな恥辱は受けないだろうに』と思い、明けても暮れても嘆くうち、いつしか奉公もうわの空で、心身ともに衰えていった。

 そんなとき、鬢につける「伽羅(きゃら)の油」を売る惣なにがしという男が近所にいて、これまた質屋の娘に惚れた。
 一本三十二文の油を二十八文にまけ、白粉(おしろい)をはずみ、化粧水の「花の露」を贈り物にして気を引こうとしていたが、その様子を見て、
「あの伽羅の油売りは口のうまい男だから、娘の気に入って、昼夜入り浸っているらしい」
などと武兵衛に話す者がいた。
 世の中には、妬かせて面白がる情け知らずがいて、その類いがする話だった。しかし思いつめてしまった心ではそれが分からず、真に受けて深く恨みを抱いた。
 ある夜、武兵衛は店を出て、そのまま何処へ行ったのか、行方知れずになったのである。

 その年の末ごろか。
 質屋の娘は、髪に「ぎんだし油」を好んで付けていたが、その油の入用があまりに多いので、両親が不審に思って問いただしたところ、髪に使うのは僅かで、ほとんどを食べていたと分かった。
 深く戒めたが、油を食うのは一種の業病なので止むことはなく、やがて油の毒が頭に上り、膿疱となって顔に吹き出て、ついに十五の歳で空しくなった。
 死んで後、髪の中からおびただしくムカデのような虫がわいて出たとかで、『人の恨みにちがいない』と世間では噂した。
 かの武兵衛と朋輩だった者が話すところによれば、出奔する少し前の武兵衛は、夜中にふと起きてものも言わず、ぶるぶると震えることが何度もあったそうだ。

 筆者の思うに、娘の死は恨みの報いではなく、業病によるものだ。
 世の中には灰を舐める者や、土器(かわらけ)を食う者もいる。そうした異食が、ことごとく恋慕の執心によって生じたものであるはずがない。
あやしい古典文学 No.740