石塚豊芥子『街談文々集要』巻十五「朝顔之奇怪」より

夢の朝顔

 湯島手代町に岡田弥八郎という、御普請方の出役を勤める人がいた。
 その人の一人娘せいは、美人なうえに聡明であったので、両親はとりわけ可愛がっていた。
 娘は和歌に心を寄せ、下谷の白蓉斎という歌人の弟子となって、去年の文化十一年、十四歳で朝顔の歌を詠んだ。よくできたと師匠も賞賛したその歌は、
    いかならん 色に咲くかと あくる夜を
      まつの扉(とぼそ)の 朝がほの花

 その冬、娘は風邪をこじらせたことから重く患って、ついに亡くなった。
 両親の嘆きは限りなく、朝夕亡き娘のことばかり思って暮らすうち、むなしく日数は過ぎて今年文化十二年の秋、娘の日ごろ使っていた手文庫の内から、朝顔の種が出てきた。
 一色ずつ「これは絞り」「これは瑠璃(るり)」などと娘の字で書き付けた包み紙を見て、母親は今更ながらに娘のことを思い出し、『このように大切に置いていたものだから、庭に蒔いて、娘のこころざしを果たそう』と、小さな鉢に種を蒔き、朝夕に水を遣りなどした。
 いつしか葉が出て茎も伸びたが、花は一つも咲かなかった。『どうして咲かないのだろう』といろいろしてみたが、いっこうに咲く気配がなかった。

 ある日、父親の弥八郎は上野寛永寺の普請場へ出向き、母親が独りうとうと昼寝していると、夢のうちで娘の声がした。
「お母さま、花が咲きました」
 はっと目覚めて、不思議な気持ちで朝顔のところへ行ってみると、一輪の花が咲き出ていた。いよいよ不思議に思い、弥八郎の帰るのをまちかねて、この次第を語ったという。
 午後に咲いたその花は、翌朝まで凋まずにあったということだ。
あやしい古典文学 No.748