『岩邑怪談録追加』「栗山の瀬の奇怪の事」より

熱い吐息

 桂市左衛門という老人が、ある夜、栗山の瀬に舟を出して釣りをしていた。
 そうするうち、市左衛門の背中に熱い息を吹きかける者があった。何者の悪戯かと振り返って見ても人影はなく、ただ吹きかけることはやまない。
 豪気な老人だから少しも気にせず釣りを続けていると、はじめはさほどに思わなかったが、繰り返し背中の一箇所を吹くので、とうとう熱さが堪え難くなった。
 舟に仰向けに寝て避けようとしたら、今度は船底から吹いてきた。どうしようもないので、船を岸に着け、帰ることにした。

 帰る途中も、しつこく熱い息を吹いてくる。ひたすら我慢して道を行き、やっと千石原御門に入ろうとしたとき、にわかに熱風のごとき大息を吐きかけられた。
 全身燃えるばかりだったが必死にこらえ、門を過ぎると、もはや吹くことはなくなった。
 これはつまり、御門に悪魔よけの札が貼り付けてあるため、魔物は入ることができず、「ここを先途」とばかりに思いきり吹きかけたものであろう。
あやしい古典文学 No.755