青葱堂冬圃『真佐喜のかつら』五より

眼を舐める猫

 神田久右衛門町に住まいする大工某は、妻に先立たれ独り暮らしだった。
 雄猫を飼って、ことのほか可愛がっていた。稼ぎに出るときはその日一日の食物をあてがい、夕刻には人に土産を持ち帰るように猫の食うものを買って戻る毎日だった。

 そうするうち、大工は眼病を患った。
 痛みが堪えがたく、医者に診てもらうと、たいそう難病で治しがたいとのこと。日を追って生活が窮迫し、猫に与える魚も求めかねるようになった。
 ある夜、猫に向かって、
「これまで久しくおまえを飼って、自分の食い物だって与えてきたけれど、今はこのように眼病に苦しみ、とても治る見込みがない。かわいそうだが、もうおまえを養う手立てもなくなった。なあ、どうしたらいいんだろう」
と、人に物言うように語りかけた。
 大工が嘆きながら眠ってしまうと、猫はその病んだ両眼を舌でしきりに舐めた。大工ははっと目覚めて驚いたが、それからは夜となく昼となく猫が両眼を舐めて、すると不思議なことに、眼病は次第に快方へ向かい、ついに片方の眼は治癒した。
 猫はその頃から一眼が潰れ、やがてふと家を出て、何処へ行ったのかもう戻らなかった。

 大工は猫が出奔した日をその命日として、経を唱え香華を手向けなどしたそうだ。
 近辺に住む者が語った話である。
あやしい古典文学 No.758