清水浜臣『遊京漫録』巻之三「白髪畑の怪」より

白髪畑の怪

 文政三年三月十日、漫遊の途次、高野山のふもと矢立の宿を早朝に出立して、高野辻というところから舟に乗り、紀ノ川を下った。
 速い流れに沿って目に移り行くあちらこちらの岸は、猿の啼く声が聞こえてはこなくても、そう吟じたくなるような情趣だった。
 五里ばかり下って、左に高く聳える山を「白髪畑」という。
 船頭の話では、近ごろこの山に怪物が出て人を攫う事件があって、紀州の殿様から討手が遣わされ、一昨日に現地に着いて以来捜索を続けているが、いまだ捕らえていないそうだ。
 それはどんな怪物かと尋ねると、船頭は詳しく語ってくれた。



 そもそも、この山のふもとの村々では、ともすれば女が突然失せることがありました。
 初めのころは『密夫がいて、それと一緒に駆け落ちしたにちがいない』と言って捜し求めましたが、誰一人として見つかった者はありません。『迷わし神に誘われたか』などと訝りあううちに、誰言うとなく『白髪畑の山かげに怪物がいて、人をとって喰うのだ』と騒ぐようになりました。
 しかし、その怪物をたしかに見た者もないまま日が過ぎて、この二月の末近くに、問題の事件が起こりました。

 山のふもとの某村の村長の娘は、齢二十ばかり、田舎には稀な美しい容姿で、言い寄る男も多かったのですが、じつは早くから言い交わした相手がおりました。
 親は二人の仲を許さず、にわかに別の男を婿にとろうとしました。女はそれに堪えられず、男と手をたずさえ、夕月夜の薄闇にまぎれて出奔したのです。
 追っ手のかかるのを恐れて山中の間道を逃れ行くと、二人の後ろから来るものがありました。
 男なのか女なのか、背が低く顔は皺くちゃで、頭に針を植えたような髪を一尺ほども振り乱して、海草みたいに裂けてぼろぼろの衣を着たのが、追い越しざま、女をさっとかき抱いて、そのまま走っていきます。
 男は驚いて追いかけましたが、鳥の翔けるようで、とても追いつけません。怪物は何度も振り返って笑い笑い逃げて、とうとう行方をくらましてしまいました。
 男は言いようのない悔しさに歯噛みしながら、それでもなんとか女を取り返そうと、木の根、岩角をひたすら踏み越え、山深く分け入りました。
 なお山の端に残る月光が木の間を洩れて物凄い山中を行き、やがて谷川の岸にいたると、向かいの岸に女が座り込んでいます。
 嬉しさに我を忘れ、声をあげて呼ぶと、女のほうも呼び返しました。
 見れば、あの怪物もいないようです。しかし、向こうへ渡る板橋が対岸に引き上げられており、このままでは深い谷と急流を渡る手立てがありません。
 男は大声で「その橋をはやく渡せ」と言いますが、女はただ手をあげて差し招くばかりです。「どうしたんだ。早く早く」とせかすと、ものに縋って立ち上がろうとしますが、足が立たず、男を見つめて限りなく泣きました。
 男は女の心の弱さに苛立って、「なんとしてもその橋を渡すんだ」と叫びました。すると女は、頭上をおおう松の大木を指さして泣きます。目を凝らしてよく見れば、松の上に怪物が登って、下の女を睨み据えているのでした。恐ろしいことこの上なく、ぞっと総身の毛がよだち、ぶるぶる震えるしかありません。
 なすすべなく見守る男をよそに、怪物はするすると木を降りると、女の髻を掴んで仰のけに押し倒しました。
 ああっ!と叫ぶのをしっかり押さえつけて、剣のような爪で乳のあたりから下へ二度ほど撫でるようにすると、着物も帯もずたずたに裂けて、露わになった肌の胸先に口を当てるのが見え、一声叫んでのけぞる女を身動きさせず、のどを鳴らして血を吸ったのでした。
 手足をわななかせて泣き叫ぶ声は、悲しいなどというものではありません。もはや魂消えて、腰も立たずにうつ伏してしまった男の前で、血を吸われるにつれて女の声は弱り、かすかになっていきます。
 怪物はさらに腹わたを掻き出し、喰い尽しました。亡骸を逆さに松の枝に引っ掛けるのを見たのを最後に、男は気を失ったのでした。

 早朝、追っ手の人々がそこまで辿り着き、男を見つけて介抱すると、息を吹き返して、前夜の恐ろしい出来事を語りました。
 聞いた人々は怖じ恐れて、以来、誰も山に入らなくなりました。
 しかしながら、本来この山は薪を多く伐り出す山で、殿様の御林もあります。そこで『こんな事件があって、木こりが山に入れなくなりました』と憂えつつ言上したところ、『その怪物、退治させよう』と、弓矢の達者を二十人ばかりお遣わしになりました。
 さっそく山狩りをして、昨日、見つけたと騒いでいましたが、逃げられたようです。
 この怪物の正体について『狒々(ひひ)という獣の齢経たやつだ』と言う人がありますが、別の人は『そうではない。狒々は人をとり喰らうものではない。別のものだろう』と言います。
 ともあれ、殿様の兵が囲んでおりますから、近いうちにたやすく討ち取ることでしょう。もう二三日遅くいらっしゃれば、獲った怪物をご覧になれましたのに。



 じつに異様な話を聞いた。こんなことは不確かな昔物語にこそあるが、まのあたりに見聞するとは思っていなかった。
 片田舎には今なお怪しいことがあるのだな、などとあれこれ語り合っているうちに、舟は和歌山城の近くに着いたのである。
あやしい古典文学 No.762