森春樹『蓬生談』巻之三「隈町の正市河伯と相撲とりて打ち殺す事…」より

河童の執念

 ことわざに「東国の火車、北国のかまいたち、西国のかわっぱ」という。上方より北・東には河童の難が少なく、西国にばかり多いというのは本当である。
 この難にさまざまある中から、確かな話でありながら一風変わった出来事を語ろう。

 わが豊後日田郡隈町の内河原町に、白糸嘉右衛門という相撲取りがいた。男子が二人あって、兄を正市、弟を四蔵といった。
 正市は十六歳で、父が親方と頼む同町内の吉武屋伊助の家で召し使われていたが、その年は六月十日と十一日両日の祇園祭の山鉾出し役に当たった。
 祭りが無事済むと祝いの宴会があり、それが終わった日暮れ前、正市は、親方の一子 磯松(七八歳)と弟 四蔵(六七歳)を連れて町裏の大川へ水浴びに行った。
 ひとしきり遊んで、もう帰ろうと水際の石に後ろ向きに立って足を濯いでいると、何ものかが足の踵を引っ掻いた。『どこの子供の悪戯だ』と煩く思って、また川に飛び込むと、そのあたりの水を滅茶苦茶にかき回してから、あとも見ずに吉武屋へ帰った。

 その晩、町の通りから、
「正市、正市」
と頻りに呼ぶ声がした。なんだろうと出てみると、大勢の子供が口々に詰め寄ってきた。
「来い、正市。相撲をとろう」
 気の強い正市は、相手が誰の子とも見定めないまま、
「よし、とってやろう」
と受けて、家々の裏手の道を通って川端まで行った。
 そこは暮れ方に足を洗った場所で、石垣の下に砂場がある。裸体になり、ふんどしを締めて型のごとく立ち合おうとすると、相手はまともに向かってこず、ただ大勢で取り囲んで前後左右に飛びまわり、後ろから肩・背・尻を突き、時には前から額なども突く。触れてくる手は水のごとく冷ややかだった。
 『そうか、俺は河童に嬲られているのか。ならば、河童の正体をあばいて、なんとしても捕らえてやる。』 正市は心に決めて、砂にひれ伏すばかりに低く身構えたが、いかんせん相手の動きが速すぎる。しばらく狙った姿勢のままじっとしていた。
 正市が手も足も出ないのを見て、河童どもは嬉しそうに手を叩き、笑うような、また何か呟くような声をたてたが、言うことは聞き分けられなかった。
 そうするうち、川の中から一匹、目立って背の高い河童が上がってきた。
 大河童は、他を押しのけて正市の前に来ると、やにわに額を突こうとした。すかさず左に身をかわすと、突き損ねてのめり、のばした腕が正市の脇にはまり込む。さっとその腕をとって引き回し、体ごと振り上げて石垣に強く打ちつけると、ギャッと一声叫んで即死した。
 思いがけない出来事に他の河童どもは周章狼狽、死骸の手足をとってあわただしく水中へと退散した。たちまち、あたりはしんと静まり返った。

 正市は脱いだ着物を抱えて親方宅へ戻ったが、まもなく四五十匹の河童が押しかけてきた。
 河童どもは正市に激しく迫り、あの大河童の報復をせんとする様子なので、刃物で立ち向かおうと台所へ取りに行くと、早くもそこに河童がひしめいていた。
 仕方がないので裏へ逃れると、そこにも集まっている。井戸のそばへ行くと、井戸の中からぞろぞろ出てくる。
 そうして右往左往する正市の姿を親方が見とがめ、
「あいつ、どうしたんだ。気でも違ったのか」
と言ううちに、正市は通りへ飛び出し、我が家をさしていっさんに走った。それを追いかけて下男らも走った。
 他の者の目には何も見えないが、正市は数十数百の河童に責め立てられて走っている。河童に膝の後ろを突かれて倒れそうになること、わずか二町足らずの間に三度、やっと親の家に走り着き、
「包丁だ。出刃をくれ」
と大慌てで喚いた。
 これを見て親も乱心と思い、来合わせていた相撲仲間の難波・響山などとともに取り押さえようとした。
 正市の力はあくまで強く、これだけの人数でも手にあまるばかり。ようやく座敷に上げて押し伏せ、布団を着せたけれども、
「おまえらが何百来ようと、一匹残らず退治してやるぞ。さあ来い。勝負しろ」
と罵り騒ぐことは止まなかった。

 人々は河童の仕業と気づいて、近くに住む人が所蔵する郷義弘の名刀を借りてきて枕上に置いた。
 すると正市は静まり、おとなしく布団をかぶって寝ていたが、刀の持ち主は道理の分からない人で、長くは貸してくれず、仕方なく返すと、また元のように騒いだ。
 親の嘉右衛門は、河童が使いをつとめるという隣国筑後久留米の水天宮に参詣し、神主に事情を話して祈祷を頼んだ。
 神主は、
「そのことは、昨日こちらに河童どもから訴えがあって、詳しく聞いた。死んだのは某川の名高い河童で、手下の河童が七八十匹。その者どもがみな甚だ憤って、なんとしても仇をとると息巻いている。容易に聞きそうにないが、我が祈って慰めたら、納得もするだろう」
と言って加持祈祷し、幣(ぬさ)一本と神前の御供の飯少しに守り札を添えて嘉右衛門につかわすと、
「この幣は、相撲をとった川岸に差しておくように。御供は正市に戴かせなさい」
などと詳しく指示してくれた。
 嘉右衛門はさらに尋ねた。
「それにしても、この国の河童が、どうしてわが日田に来ていたのでしょうか」
 すると神主は、
「不審はもっともだ。河童は慣例として毎年四五月、肥後ノ国阿蘇郡阿蘇神社の社僧 那羅圓坊のもとへ伺候する。その行き帰りは、この筑後の上妻郡矢部川から向かって帰路を日田川にとる年と、日田川から行って矢部川を帰る年と、一年交代で、今年は日田川を帰る年だった。河童どもがそちら辺に着いたのが六月八日で、日田川の河童が『四五日泊まって、祇園祭を見物していくとよい』と勧めるのにまかせて逗留していたらしい」
などと話した。
 嘉右衛門が帰って教えられたとおりにしたところ、正市は無事本復した。

 それから九年。
 天明五年十一月某日の夜更け、正市が町外れの堀端を通ったとき、水中から何か夥しい音がした。
 ぞっと身の毛がよだち、たちまち寒気に襲われて家に帰ると、傷寒の病となってついに死んだ。
「これはまったく、河童どもの恨みの執念が、ここに至って災いをなしたものだ」
と嘉右衛門は語ったという。
 正市が最初に騒いだ夜、当時六七歳だった筆者は母とともに母方の祖父の家に行っていて、そこからほど近い嘉右衛門の家の門口まで、下男に負われて見に行ったことをよく覚えている。
 また、那羅圓坊というのは、昔から俗に「河童の司」と呼ばれ、代々河童を鎮める祈祷を行ってきた。今でも諸人に頼まれ、わが町へも時々やって来る。
あやしい古典文学 No.766