『今昔物語集』巻第五「一角仙人女人を負はれ、山より王城に来たれる語」より

仙人 都へ行く

 はるかな昔、インドにひとりの仙人がいた。額に角が一本生えていたので、「一角仙人」と呼ばれた。
 深山で永年修行を積んで得た通力で、雲に乗り空を飛んだ。高山を動かし、禽獣を従えた。
 それほどの仙人であったが、にわかに大雨が降って道が悪くなっていた時、何を思ったか徒歩で出歩いて、険しい山坂で不意に滑って転倒した。
 転んだのは齢をとって足腰が弱った自分のせいでもあるのに、ひどく腹を立て、
「そもそも世の中に雨など降るから、道が悪くなって転んだりするのだ。仙人の苔衣も、こう濡れては気持ちが悪い。雨を降らしているのは竜王どもだ。いまいましい奴らめ」
と、ただちに諸々の竜王を捕らえて、水瓶一つに封じ込めた。
 小さな水瓶に巨大な竜王たちが押し込められたのだから、身動きもならず、息苦しく情けないこと甚だしい。しかし、いくら嘆き悲しんでも、この仙人の比類ない通力の前には、なすすべなかった。

 竜王がみな封じ込められたので、以来十二年間、雨が全く降らなかった。
 全インドが旱魃になって、人々の嘆きは計り知れない。統治する十六大国の王が行ったさまざまな雨乞いの祈祷も、まるで効き目がない。
 どうしてこんなことになったのか誰にも分からなかったが、ある占い師は、次のように占った。
「ここより東北の方角に、深い深い山がある。そこにおる一人の仙人が、雨を降らす諸々の竜王を捕り籠めたから、世界に雨が降らなくなった。世に格別な験力をそなえた修行者たちに祈らせたとしても、その仙人の通力には及ばないだろう」
 これを聞いて諸国の人は、どうしたものかと思案に暮れた。まったく名案が出ないなかで、一人の大臣が発言した。
「たとえ尊い聖人であっても、美しい女の色香に惹かれず、麗しい音色に心奪われない者はありません。昔、鬱頭藍(うつずらん)という仙人がおりまして、一角仙人にまさる修行者だったようですが、女色にふけってたちまち通力を失いました。ですから試しに、十六大国の美人中の美人にして声も美しい女を集めて、かの山中に遣わし、峰高く谷深いところの仙人の住処と思われる場所で、趣深く歌わせてみてはどうでしょう。それを聞いたら、仙人も鼻の下をのばすのではありませんか」
 国王はこの意見を取り上げ、
「ただちにそのように取り計らえ」
と命じた。

 国中から美人で美声の女が、五百人選び出された。
 女たちは、栴檀香を塗り沈水香を浴んだ体に美しい衣服を着せられ、綺麗に飾り立てた五百の車に乗って山へ向かった。
 山に入ると車から降りて、五百人が打ち群れて歩いたが、その様子はなんとも素晴らしかった。
 やがて十人ずつ二十人ずつと分かれ、それらしい岩窟をめぐっては、木の下や峯の間などでしみじみと歌った。その声に山も響き谷も騒ぎ、天人も下り竜神もやって来そうであった。

 そんななか、一つの奥深い岩屋の傍らに、苔の衣を着た仙人がいた。
 やせ衰えて身に肉の一片もなく、骨と皮ばかりで魂の隠しどころもないかのようだった。額に角が一本生えて、たいそう恐ろしげな姿である。
 この仙人が、水瓶を提げて杖にすがり、歪んだ笑みを浮かべて、まるで影法師のようによろめき出てきた。
「この深山まで来て結構な歌をうたうのは、いったいどういう人々かな。わしはここに住んで千年になるが、こんなことは一度もなかった。天人が下られたのか、悪魔が近づくのか」
 仙人の言葉に一人の女が応えて、
「わたしたちは天人でもないし、悪魔でもないわ。五百人のケカラ女といって、歌い歩くインドの女の仲間なの。この山はとても風情があって、花々が咲きほこり、水の流れが清らかだし、なにより尊い仙人様がおいでになると聞いて、『そのかたに歌をお聞かせしよう。山中にいらっしゃっては、まだこんな歌をお聞きになったことがないだろう。歌ってお近づきになりたいわ』と思ったから、わざわざやって来たのよ」
と言うと、とろけるような声で歌った。
 仙人は、いまだかつて見たことのない艶姿で情感たっぷりに歌うさまに目がくらんだ。胸が激しくときめき、我を失って口走った。
「おまえ、わしの言うことをきいてくれないか」
 女が、『しめた、変な気分になったみたい。このまま堕落させちゃおう』と思って、
「ええ、なんでもいうことをきくわ」
と甘く囁くと、仙人はぶっきらぼうに、怒ったような声で言った。
「いや、その……、では、ちょっと触ってみようと思う」
 女は、さすがに角の生えた老人に触られるのが気味悪かったが、こんな恐ろしげな人の機嫌を損ねたら危ないと思い、また仙人をたらしこめと国王に命じられてもいたから、ついに恐る恐る言うことに従った。
 その瞬間、仙人の呪縛が解けた。
 竜王たちは欣喜雀躍して水瓶を食い破り、空に翔け昇った。昇るやいなや空一面がかき曇り、雷鳴とどろき稲妻走って、いつやむとも知れぬ豪雨となった。

 雨に降り込められて、女は身の置き所がなく、かといって都へ帰ることもできないので、恐ろしいと思いながらも岩屋で数日を過ごした。その間に、仙人は女に心底惚れ込んでしまった。
 五日目に雨がやんで、空が晴れたので、女は別れを告げた。
「いつまでもこうして居れないから、都へ帰るね」
「そうか、ならば帰るがよい」
 仙人はこう言ったものの、いかにも別れがたく悲しそうだった。
「でも、どうしよう。こんな岩だらけの山を歩いたことなんてなかった。足がすごく腫れてるの。それに、帰る道もわからないし」
「では、山を下りるまでの道は、わしが案内してやろう」
 こうして二人は出発したが、女が前を行く仙人を見れば、頭は雪のような白髪をいただき、深い皺の波に顔をおおわれ、額に角が一本。苔の衣を着て、腰は二重に曲がり、錫杖を杖にしてガクガク震えよろめきながら歩いている。まったく、恐ろしくも馬鹿馬鹿しい姿であった。
 やがて、渓谷を渡る掛け橋に至った。
 両岸は屏風を立てたような断崖絶壁で、峻険な巌の真下が大滝となり、その滝壺に逆巻く白波から湧き上がる霧が、雲のように漂って深く立ちこめていた。羽が生えているか、竜に乗るかしないと渡れそうにない。
 女は立ちすくみ、仙人に頼んだ。
「ここはもう駄目。見ただけで目が回りそうで、渡るなんて考えられない。仙人様はいつも渡ってるんでしょう。わたしを負ぶって行ってよ」
 仙人は、もはやこの女に逆らえない。
「わかった。負ぶさるがよい」
 そうはいっても、仙人の脛はつまめば千切れそうにか細いから、よけいに谷底に落っこちそうで怖かったが、女は我慢して負われた。そして、掛け橋を渡り終えても、
「もう少し、お願い」
と何度も言って、とうとう国王の都まで負われていった。

 この二人を道々初めて見た人は、
「山に住む一角仙人が、ケカラ女を負ぶって王城に入るぞ」
と言い騒ぎ、広いインドの男も女も、身分の高きも低きも、みな集まって見物した。
 額に角が一本生えた者が、頭に白髪の雲をいただき、針のごとく細い脛で歩む。錫杖を女の尻に当てがい、垂れ下がれば揺すり上げて行くのを、笑い嘲らぬ人はなかった。
 宮殿に入ってきたのを見て、国王も『なんだ、この馬鹿者は』と思ったけれども、じつは比類ない仙人だと聞いて敬い畏まって、
「ご苦労さまでした。早々にお帰りください」
と言葉をかけた。
 仙人は空を飛んで行きたい気持ちであったが、通力を失った今それもならず、よろめき倒れながら帰っていった。
あやしい古典文学 No.774