森春樹『蓬生譚』より

人魂の説

 人の霊が、怒りにより、あるいは怨恨や愛慕のあまり、火を発することは珍しくない。
 また、世に「人魂」という火がある。
 人魂の場合、怒り・恨み・愛などによらず、ただ死んだ人の魂が燃えて出たものもある。
 ときには人魂が先に出て、それから三日、十日、二十日を過ぎて死ぬこともある。しかし、身近で看病している人は、病者の人魂が出たことを知らない。家の外に現れるからだ。
 筆者も見たことがあるが、色は墓で燃える燐火のようで、空中を高くまた低く、ゆっくりと行くものだ。
 そんな人魂が、壁にぶつかって落ちたのを見た人がいる。
 翌日現場を見に行ったら、茶碗くらいの大きさの白っぽくて少し透き通ったものが、地面にぺったりと付いていたという。
 人魂を打ち落とした人もいる。
 道を行くと向こうから近づいて目の前まで来たので、持っていた六尺棒で叩き、あやまたず打ち落とした。落ちたのをひたすら叩き続けたら、火が幾つもに分かれ、最後には蛍の群れのような数多くの小さい火となった。そのまま帰り、翌朝早く行ってみると、そこは雨の後のたまり水の上で、水と泥に混じって卵の白身を泡立てたようになっていたそうだ。
 これらから考えると、「俗に言う人魂の実体は、人の淫水である」という説は本当に思える。
 しかし、その淫水はどこから出るのか。それに、死ぬ人ごとに出るという話も聞かない。各人の生きようによって違うのか。

 人魂の遊魂も、時として出ることがあるようだ。
 三四十年前、筑後の吉井宿で、ある人が夜遅く家に帰り着くと、門前に青白い火があった。
 近寄ろうとすると、火はそれに気づいたかのように静かに去って、庇の上窓の際に止まった。手近にあった火消し道具の長いのを掴んで打とうとしたところ、火は驚いた様子で飛びのき、逃げだした。
 一二町ほど追いかけたところで、火はある家の二階の窓から中に入った。急ぎその家を叩き起こしてわけを語り、家の主人がただちに二階へ上がってみると、下女が汗まみれで、ひどくうなされていた。
「おい、どうした。悪い夢でも見たのか」
 主人が呼び起こして尋ねると、
「はい、何某の家に用事があって行ったら、戸が閉まって入れません。外から様子をうかがっていると、旦那が帰ってきて、やにわに火消し道具で叩こうとするんです。やっとのことで逃げ帰りましたが、それでこんなに汗を……」
 下女の語る夢は、火を追いかけた人の言うことに少しも違わなかったわけだが、これは、そもそもいかなる理由で火が現れたのだろう。
 夢はすなわち遊魂であり、遊魂が折々に夢であるならば、火がもっと多く世に見られなければならないが、そうでもない。
 こうしたことは、とかく一筋縄でいかないもののようだ。
あやしい古典文学 No.779