『今昔物語集』巻第二十「染殿后天宮のために■乱せらるる語」より

上人 淫鬼と化す

 むかし、文徳天皇の御母にあたる染殿后(そめどののきさき)という方がいた。太政大臣藤原良房公の娘で、その容姿は言いようがないほど際立って美しかった。
 しかし困ったことに、この后は常に物の怪に悩まされていた。霊験あらたかと評判の僧たちが呼ばれて様々の祈祷を行ったが、まったく効果がなかった。

 その頃、大和葛城山系の金剛山というところに、一人の尊い上人が住んでいた。長い年月この山で修行を積み、鉢を飛ばして食べ物を得たり、甕を水汲みに遣ったりしていた。
 たゆまぬ修行の結果、上人は比類のない験力を得て、評判は次第に高まった。
 天皇と父親の大臣もそれを耳にして、『その僧を呼んで、后の病の祈祷をさせよう』と思い、参内させよとの命が下った。
 使者が何度となく赴いたが、上人はその都度辞退した。しかし結局、勅命には背きがたく、ついに参上することとなった。
 御前に召して祈祷を行わせると、たちまちしるしが現れた。
 后の侍女の一人が、にわかに錯乱したのだ。何かが乗り移って泣き喚きながら走り回るのを、上人がさらに力を込めると、女は縛られたように動けない。そこをさらに激しく祈祷で責めつけた。
 すると女のふところから、一匹の老狐が転げ出た。くるくる回ってその場に倒れ伏し、もう逃げ去ることもできない。上人は狐を縛り上げさせ、悪道を去るよう教えを垂れた。
 父親の大臣は、これを見て限りなく喜んだ。それから一両日のうちに、后の病はすっかり癒えたのである。

 大臣が、
「当分の間、ここに居てくれ」
と言ったので、上人はしばらく帰らずにいた。
 夏のことで、后は単衣物だけを着て几帳の内にいたが、そこに風がさっと吹いて、ひるがえった垂れ布の隙から、たまたま上人は后の姿を垣間見た。
 『なんということだろう。こんな美しい人を、いまだかつて見たことがない』。上人はたちどころに目がくらんで心乱れ、胸が張り裂けそうになって、深い愛欲の情の虜となった。
 しかし、相手が后ではどうしようもないから、ただ思い悩むばかりだ。
 胸は火に焼かれるがごとく苦しく、ちらりと見たばかりの面影が片時も瞼を去らない。ついに思慮も分別もなくして、人のいない隙をうかがって几帳の内に忍び込んだ。
 横になっている后の腰にやにわに抱きつくと、后はびっくりして、汗みずくになって逃れようとするが、女の力では抗しきれない。上人はありったけの力で抱き伏せる。だが女房たちが異変に気づいて、大声で騒ぎはじめた。
 まもなく、侍医の当麻鴨継(たいまのかもつぐ)がやって来た。この者は勅命で后の病の治療のため宮中に詰めていたのだが、后の御殿の方から大声がするので、驚いて駆けつけたのだ。
 鴨継が見ると、几帳の内から上人が出てきた。
 ただちに上人を捕らえ、天皇に事の次第を報告すると、天皇は激怒した。上人は縛り上げられ、牢獄に放り込まれた。

 獄につながれた上人は、ひと言の弁明もせず黙していたが、あるとき天を仰いで泣く泣く誓いを立てた。
「我は今ただちに死んで鬼となり、后が存命のうちに、必ずや思いを遂げてみせる」
 獄吏が聞き留めて父親の大臣に知らせたので、大臣は驚き、天皇に申し上げたうえで、上人を赦免して金剛山へ帰した。
 しかし、もとの山に帰っても、后への情欲は我慢できるものではなかった。
 なんとか再び近づきたいと、日ごろ頼みとしている三宝に願いを立てたが、結局現世では叶わぬと悟ったか、『やっぱり死んで鬼となろう。鬼となって思いを遂げよう』と決めて、一切の食を断った。
 十日あまり経って餓死すると、たちまち鬼になった。
 身の丈八尺ばかり、禿髪(かぶろ)にして裸体であった。赤いふんどしをして、小槌を腰に差している。膚は漆を塗ったように黒い。眼は金鉄の碗を入れたようにぎらぎら輝く。剣のような歯が生え並んだ口から、上下の牙を剥き出していた。

 鬼は、后の几帳の傍らに忽然と現れた。
 これを見た人は、みな動転して逃げまどった。女房などは、ある者は気絶し、ある者は衣を頭からかぶってうずくまった。もっとも、后に近しい人しか入れない場所なので、多くの人が見たわけではない。
 人々が恐れる一方で、后はこの鬼に魅入られてしまった。すっかり正気を失って、綺麗に身づくろいした姿でにっこり笑うと、扇で顔を差し隠して几帳の内に入り、鬼と二人 抱き合って寝た。
 外で聞いていると、
「いつもいつも恋しく思っていた。逢えなくてつらかった」
などと鬼が睦言し、后は嬉しげに嬌声をあげている。あまりのことに、女房らはみな逃げ去った。
 しばらく時を経て日暮れになると、鬼が几帳から出て去って行ったので、女房らは『后はどうなさったのだろう』と思って急ぎ戻り、様子を伺った。
 后は一見いつもと全く同じで、『何か変なことがあったかも』と不審がる気配すらなく坐っていた。ただ、眼のあたりが少し恐ろしげになったように感じられた。
 この事件の報告を受けて天皇は、奇怪さに怖じ恐れるより先に、『后はこれから、どうなってしまうのか』と案じて深く嘆いた。
 じっさい鬼は、以後毎日同じように現れた。后はそのたびに心を奪われ、ひたすら鬼をいとしく思って交接した。
 宮中の人々はそれを見て、どうしようもなく悲しく、いたずらに嘆くばかりだった。

 やがて、鬼はある人に憑いて、
「鴨継には恨みがある。きっと思い知らせてやる」
と言った。
 鴨継はそれを聞いて恐れおののいていたが、まもなく急死してしまった。三四人いた鴨継の息子たちも、みな気が狂って死んだ。
 天皇も父親の大臣も、この事態を見て甚だ恐怖し、鬼を取り鎮めるべく、大勢の高僧に懸命の祈祷を行わせた。
 祈祷の効果があったのか、鬼は三月ばかり来ず、后の心持も少し治って以前のようになった。
 天皇はそれを聞いて喜び、
「一度、様子を見に行こう」
とのことで、后の御殿に行幸の運びとなった。常よりも心のこもった行幸で、文武の百官が残らずお供した。

 天皇は御殿に入り、后に対面して涙ながらにしみじみと語りかけた。后も深く感動した様子だった。天皇の目にはそんな后の姿が、かつてと少しも違って見えなかった。
 と、その時……。
 あの鬼が、部屋の隅から躍り出た。そのまま后の几帳に入っていく。
 天皇が驚いて見ているうちに、后は例によって正気を失い、鬼を追っていそいそと几帳に入った。
 しばらく間があって、鬼は今度は南面に躍り出た。
 大臣・公卿をはじめ百官の者が、真正面に鬼を見て恐れおののき、『とんでもないやつだ』と思っているところへ、后が続いて出てきて、多くの人々の目の前で鬼と一緒に横になった。
 后と鬼はその場で、言いようもなく見苦しい痴態を、誰はばかることなく繰り広げた。やがて終わって、鬼が起き上がると、后もまた起きて几帳に入った。
 天皇は、どうすることもできないと思い、嘆き悲しみながら帰っていった。

 こういうことがあるから、高貴な女性は、怪しい僧に近づかないよう気をつけなければならない。
 この話は極めて不都合で、言えば何かと差し障るような内容であるが、後世の人にみだりに僧に近づくのを戒めるため、語り伝えているのである。
あやしい古典文学 No.784