人見蕉雨『黒甜瑣語』二編巻之五「早鞆琵琶行」より

早鞆琵琶行

 かつて、肥前生まれの琵琶の名手で、とりわけ『平家物語』をよくする盲人がいた。
 盲人はある年、豊前の早鞆浦に旅して、数日逗留した。その一日、なかなか暮れない春の夕べのつれづれに、堤防伝いに杖をついてそぞろ歩きしていると、由緒ある家の使用人とおぼしき人が途中から道連れになって、話しかけてきた。
「昨日の夕方、たまたまあなたが琵琶をお弾きになるのを聴いて、その素晴らしさに日の暮れるのも忘れたほどでした。わが主人も、琵琶の調べをこよなく愛でておいでです。よろしければ今宵、わたしとともに来てくださらぬか。主人もことのほかお喜びになるでしょう」
 盲人は快く承諾し、ただちに宿に帰って琵琶を抱えると、その人に同道した。

 行くことおよそ一里あまりで、一つの山に登った。
 山上に、美麗で広壮な御殿が構えてあるらしい。東屋(あずまや)へと導かれていく途中の一間一間の奥深さは、言いようもないほどだった。
 出迎えた人が敷物をすすめて盲人を座らせた。奥のほうでさかんに人が行き来するらしく、衣服に薫き染めた香りが座に満ちて、しばらくして先払いの声があった。
 御殿の主が正面の玉座につき、公卿・殿上人がずらりと居並んでいる様子である。盲人は不思議の心持ちで、ただひたすら平伏した。目が見えないながら座敷のさまを考えるに、側面には錦の帳を垂らして、身分の高い女官たちも列席しているようだ。
 やがて、『平家』を語れとの命があった。
 盲人は琵琶をととのえて、ゆっくりと語りだした。花に隠れた鶯が春日に滑らかに鳴くように、つかの間の蝉の声が夕刻の陽に澄みわたるように……。
 一座ことごとく耳をすまし、ひっそりと静まっていたが、しだいに哀切・悲痛な調べへと移り、曲たけなわにして安徳帝入水を語るに至ったとき、玉座の人をはじめ数多の貴人・女官たちは、いっせいに「ああっ」と叫んだ。みな涙を流し泣き悶える様子で、もはや聴くことができるとは思えなかったので、盲人はしばらく撥を止めた。
 そのとき、
「今宵はもう夜も更けた。これまでにして退出せよ。また呼び出すが、このことは決して人に話してはならない」
との言葉があって、盲人は引き出物を貰って宿へ送り帰された。

 四五日後、また使者が迎えに来て、一緒に山の御殿へ行き、前と同じく『平家』を語った。
 この夜は宵のうちから雨が降って、曲に聴き入る気配もひとしお静かに沈んで感じられた。座の末々まで一人残らず、心を澄ましている様子だった。
 途中、盲人が息を休めて煙草を一服したとき、貴人の席から話しかけられたが、いかにも時代離れした内容で、まったく何のことか分からなかった。
 盲人はまた語りだした。
 琵琶の余韻は泣くがごとく訴えるがごとく、先夜に倍して心を揺する。おりしも激しい雨が窓を打ち、雨水溢れて渓谷に流れ落ちるとき、はからず安徳帝入水の譜に至って、一座の悲泣の甚だしさはたとえようもなかった。
 盲人は、あまりの訝しさに、かえって撥を止めることができず、憑かれたように弾ずるうち、周囲はすべて静まり返って、ただ松風の音がするばかりだった。

 翌未明、長門赤間ヶ関の阿弥陀寺の住職が、所用あってこの山の麓を通った。
 山上のほうから琵琶の音が聞こえてくるので、怪しく思って山に登ってみると、松柏生い茂って荒れに荒れた早鞆神社の境内に一人の盲人が端座して、一心に琵琶を弾じていた。
「もし、どうなさった」
 声をかけると、盲人は我に返って、だんだんとわが身に起こったことのあらましを語った。
 住職が辺りを見回すに、幾星霜を経たとも分からない苔むした石碑が、右に傾き左に倒れしている。早鞆浦は源平の古戦場にして平家滅亡の地であり、これらの石碑は、いくさで死んだ人々を埋葬した墓碑なのだった。
 のちに盲人が、御殿で貰った引き出物を人に見せたところ、みな古めかしい昔の品々ばかりであった。

 これは、最近の出来事として語り伝えられている。
 秘密を洩らしたせいか、盲人はその年に世を去ったという。
あやしい古典文学 No.800