滝沢馬琴『異聞雑稿』上「奇談」より

暗闇娘

 水戸宰相 徳川斉昭公は、領国の政治改革のため、天保四年春三月より水戸に在城し、多くの善政が評判になった。
 その一つとして、領内の窮民ならびに身寄りのない者、療治しがたい重い持病や異病に苦しむ者を救うべく、城内に施薬院のような施設をととのえ、医師に施療を行わせるものとした。
 このことは領内の名主・村長に布告され、難儀している病人があったらよく取り調べた上で報告すべしとの命も下った。

 さて、水戸の下町に住まいする町人某の一人娘は、当年十三歳で大変な美少女だが、奇病の持ち主でもあった。
 娘は生まれたばかりのころから暗所にいるのを好んで、明るい場所を極端に嫌った。少しの間でも明るい所へ出すと、激しく泣き出して止まない。そのため家の奥まった部屋の戸障子を閉めきって、もっぱらその中で養育し、ようやく分別のつく年ごろにまでなった。
 容貌のすばらしさは比類ないけれども、手習いなども暗室の中でのみ行うので、女中たちでさえ姿を見ることはまれで、たまたま娘が便所へ行くときなどにちらっと見て、例外なく驚嘆するのだった。
 両親は娘を溺愛して、無理に治そうと試みず、何事もしたいようにさせてきた。しかし、このたびのお触れにより、町役人たちが『あの娘も異病であろう。報告すべきだ』と考えて、両親にも説明した上、報告書の異病の部に書き記して上申した。
 斉昭公がそれを見て、
「なるほど、異病であるな。だが、よく療治すれば治らぬこともあるまい。明日連れてまいれ」
と命じたから、町役人は承って、その由を親に伝えた。

 次の日、町役人が迎えにいくと、親が言うことには、
「仰せごとの趣をよくよく言い聞かせましたが、娘は『行かない』『行けない』と言うばかりで、まだ支度もしていません」
 役人たちは困惑した。
「そうはいっても、今更やめるわけにはいかないのだ。仕方がない。我らがよく諭してみよう」
 連れ立って娘のいる暗室へ行って、いろいろと宥めたりすかしたりしてみたが、娘はまったく受け付けず、
「知ってるでしょう。わたしは、幼いころから明るい場所が大嫌いなんです。なのに、そんな晴れがましいところに出られるわけありません。こればかりは許してください」
と、ただ泣きに泣いて、どうしようない。
 そうこうするうち時刻は迫るし、役人たちは苛立って、
「気持ちは分からないではないが、お上の仰せを受けながら、本人が嫌がるからと行かせなかったら、我々もどんなお咎めを受けるか知れない。縛り上げて引き立ててでも、連れて行くのが我々の役目だ。しかし、手荒なことをすれば親たちも恨もうし、お上のお慈悲と違うことになってしまう。のう、娘御、つまるところ眼を塞いで行くなら暗室と同じことであろう。療治のおかげで異病がおさまるなら、それに勝る幸いがあろうか」
などと口々に言いつのるうち、一人が傍らに手習草紙のあるのを見て、『これはちょうどよい』と引き裂いて、娘の両眼に押し当てた。
「墨で黒くなったこの紙を眼に当てて行ったら、途中の道で眼を開いても、明るみを見てしまうことはない。そうしようではないか」
 この言葉で娘はようやく、
「そこまでおっしゃるなら、よろしくお願いします」
と納得したので、両親はもとより町役人らも、皆ほっと胸を撫で下ろした。

 紙を娘の両眼に十分に貼りつけて、父親と町役人らが娘を連れて水戸城へと向かうと、早くも話を聞きつけた老若男女が、『評判の美少女を見るのはこのときだ』とばかり、あちらからもこちらからも走り集まって、その数幾千。
 途中の町々の役人も出て、詰めかける群衆を鉄棒でさえぎろうとしたが、あまりの数に制しようがない。やむをえず、棒でもって娘の左右をわずかにせき止めて、どうにか前進した。
 しかし、だんだん城が近くなると、娘はまたも『やっぱり行かない』と言い出し、引き返そうとする。町役人らが説得しても全く聞かず、突然振り払って逃げ走った。
 行く手を遮ろうとしたが、娘の気色は一変して凄まじく、混み合う群衆の頭上を躍り越え、まっしぐらに走った。一人がすかさず追いすがって、帯を捕らえようとしてわずかに届かず、娘はそこから城の堀まで、十メートルあまりの距離をひらりと跳んで、堀の水中へ飛び込んだ。
「わあ、娘が入水したぞ。見ろ見ろ」
 大騒ぎして堀端へ押し寄せる人だかりは山のごとく、親はもちろん町役人らも驚き慌てて、娘を助け上げようと思うのだが、沈んだきり姿が見えない。国法で城の堀の中へ入ることは禁じられているから、手の施しようがなかった。

 のちに事情を言上したところ、『人を入れて屍骸を出すべし』との命が下ったので、水練の達人を潜らせて隅々まで捜索したが、結局見つからなかった。
 両親はひどく泣いて、
「よけいなお慈悲で娘が召されたりしなければ、こんな非業の死に方をせずに済んだものを」
と怨み嘆いた。
 やがて、そうばかりもしておれないので、入水の日を命日として、追善の仏事をねんごろに執り行った。
 これは、天保四年四月下旬の出来事であった。

 同年八月一日の午前十時ごろ、水戸は大風雨に見舞われた。
 その際に『城の堀水から蟠竜が昇天した』との風聞がある。
 実際この日の大嵐は近来まれな猛風で、常陸は無論のこと、上総・下総・武蔵・上野まで被害を受けない地はなかった。とくに水戸の城内・城外の破損・破壊は数え切れず、そのひどさは公儀へ届出の書付の写しを見ても明らかである。
 ここにおいて水戸の民衆は、
「嵐のおりに城の堀から昇った竜は、きっと四月に入水した下町の某の娘だ。思うに、娘はもともと蛇の子であったか、あるいは産まれるときに悪竜に害されて、竜が娘に化けていたにちがいない」
と、もっぱら噂したのだった。

 この一編の物語は、ある三味線の師匠が、去年の春に江戸から水戸へ行き、逗留数ヶ月の後に戻って話したものである。
 現地にいて目撃したことだから、根も葉もないことではないだろうと、ある友人が筆者に語り伝えたのを、ここに記した。娘の名がはっきりしないのが、ただ一つ残念である。
あやしい古典文学 No.808