橋本経亮『橘窓自語』巻三より

牛の如きもの

 京都の桂川が洪水したとき、嵯峨野嵐山のさらに奥から筆者の住む梅津近辺まで、濁流の中を牛の如きものが泳ぎ下り、水の引くころ、また上流へと遡った。
 ただただ恐ろしい光景で、巨体が逆巻く水中を行くとき牛の背のようなものが見え、しかし面貌を見た者は一人もなかった。
 昔からこうしたものを、川の神であろうと言い伝えている。

 『江陽屋形年譜』には、次のようにある。
「元亀四年三月十九日、洪水。近江の各所で川水が満ち、田畑に大被害があった。野洲川から牛の如きものが這い上がって、落合の堤防で啼いた。その声もまた牛が啼くようだった。黒雲が下って牛の如きものを包み込み、虚空に上がった。これについて種々の説があるが、いずれにせよ前代未聞の珍事である」
 桂川に出たのも、これと同類かと思われる。
あやしい古典文学 No.812